18日、石破内閣は、れいわ新選組の山本太郎代表の質問主意書に対し、日本を「スパイ天国」とみなさない答弁書を閣議決定した。
対して、「スパイ防止法」を唱えた参政党や国民民主党の躍進があった参議院通常選挙で惨敗した後、自民党内では、「スパイ防止法導入へ検討推進を」との提言があったばかりだから、党をも無視した珍しい閣議決定となったのである。
それもこれも、選挙に惨敗しても内閣を刷新することのできない自民党の弱体化が原因であろう。
つまり、追い詰められた「あっち側」の必死の抵抗ともいえるが、国民には大迷惑なはなしなのである。
フランスで、『ベルサイユのばら』がいまも盛り上がっているのは、「革命前夜」的な社会の空気があるからではないのか?とかんがえると、かつて日本で一大ブームにはなったものの、いまのところ一過性にみえたのは、やはり国柄のちがいがあったからだろう。
しかし、ふたたび日本でも「ベルばら」がブームになりそうなのは、とうとう日本がゲスな欧化をして、なんちゃって階級社会になりつつあるからであろう。
それをつくりだしたのが、自公政権の罪である。
詳細に追跡すると、なにがなんだかわからなくなるほど複雑なのが、フランス革命だった。
それぞれのひとが、個人主義のもとに啓蒙されて、それぞれの解釈と行動を起こしたことが原因だが、治世の中心たる宮廷では、残念なレベルの思考しかできないひとびとが王侯貴族として見栄の張り合いをやっていた。
これを、あの大家ゾンバルトが、『恋愛と贅沢と資本主義』(1912年)で大真面目な説明している。
宮廷の無駄遣いが、宝飾品やら衣装やらの周辺の職人と商人を潤わせて、いまでいう兆円単位になる毎年の国家財政赤字=民間黒字が、資本を蓄積させた結果、資本主義に移行したという説である。
なんと、この日本語翻訳がでたのは、円高不況の1987年のことであった。
じつは、資本主義が生まれた原因を、人類はいまだにしらないのである。
だから、わたしは、資本主義はいまだに未来のシステムだとする、アイン・ランドの主張に共感をおぼえるのである。
これが、日本ではヒグマ被害とヒグマ駆除と保護の、それぞれバラバラな議論がおきることでゲスな欧化の度合いの深刻さがわかるのである。
「自然」を侮ったものが、共通の価値判断基準をうしなって、なにがなんだかわからなくなるほどの議論になるのは、まさにフランス革命の構造と類似していないか?
本人へのインタビューがいまさらできるはずもないが、マリー・アントワネットは、ほんとうに生涯で一度も臣民の生活をおもんばかったことはなかったのか?
だとすると、「民のかまどの煙」の逸話が残っているわが国のレベルとは段違いも甚だしいゲスな(治世)文化(選民思想と厳格な身分制)の代表者なのである。
そのゲスな部分だけを学んだひとたちで構成する、石破内閣、は、将来、歴史的な興味の対象になるのではないか?とおもわれる。
すなわち、わが国の戦後教育のとてつもない失敗例としての政権=主に行政府という位置づけが確定するのではないかと、すくなくとも願うものである。
ウクライナ和平に関して、圧倒的な存在が世界に確認されたのは、トランプではなくてプーチンの方である。
ホワイトハウスでの会議中、ヨーロッパの代表を待たせて、トランプがプーチンに40分も電話して討議内容を漏らして確認するということが物語っている。
そのプーチンの思想的背景には、ロシアの哲学があり、その哲学は西欧のもの(個人主義)とはちがう集団主義を基準に置く。
ために、ロシア人という集団は、ある強力なリーダーが号令しないと1ミリも動かない特性を持つ。
このことの日本人との類似性は、まことに興味深い。
日本はスパイ天国とはみなさない、という決定の浅はかさこそ、戦後教育の浅はかさの集大成となったのである。
その理由に政府が挙げたのは、取締・検挙を強化する、という矛盾である。
スパイを取締・検挙する法体系がないから問題提起されているのだ。
これから進学を目指す世代も、いま現役の学生も、とっくに社会人となったかつての学生も、この原文を起案した政府官僚の発想のヤバさに気づけば、なにを学ぶべきかは、学校のカリキュラムにないことがわかるであろうし、各種試験の突破をもっても役立たない。
制度疲労も限界に来たことを示す。
この意味で、まもなく「塾」の時代がやってくるのではないか?教えるのは、儒学である。
いま、算盤塾がブームだというが、朝、学校に行く前に、この塾で30分の四書五経の素読をしてから集団登校したらいいのではないか?
そして、下校したら算盤を習う。
江戸時代の武士の子供は7歳で修得していたのだから、現代人にも無理なことではない。
ただし、それに見合った日本人の先生が見当たらないのである。