最初のニュースは、北海道のニセコからだったかと記憶している。
わたしも以前(20年前ほど)、ニセコのスキーリゾート開発にかかわっていたことがあった。
当時はほとんどがオーストラリア人を中心にしていて、そのまたきっかけが、カンタス航空の千歳便が定期便になったから、ということだった。
アジア・太平洋地域では貴重な、パウダースノーを求めてやってくるオーストラリア人たちではあったけど、当時のオーストラリア人たちは、そんなにおカネを使わない滞在をしていたものだった。
しかし、オーストラリア人向けのコンドミニアム(日本語でいう「マンション」)開発では、町内中心部のコンビニを案内して、北海道独特の生鮮食料品もたっぷり扱っていることが、「不動産購入意欲」をかきたてたのである。
これなら、「住める(=自炊できる)」と。
もちろん、当時の日本は、金融バブルが起きていたので、いまほどの「閉塞感:貧困化」ではなかったし、オーストラリア人にとっても日本はまだ「先進国」に見えたのである。
それがまた、為替レートにもなっていて、円高基調のために、遊びで来る彼らの財布も堅かったのだ。
しかし、100円が150円(後半)ともなれば話はちがうし、『ウサギとカメ』の話のごとく、停滞する日本(ウサギ)を横目に、オーストラリアだけでなく世界中の国々がカメのように確実に成長して、とうとう逆転のタイミングを迎えたのである。
そうやって、まずニセコのラーメン屋さんが一杯2000円の価格設定をしてみたら、「イケる!」ことがわかって、蔓延し、4000円のラーメンも登場するにいたったからニュースになったのである。
直接4000円のラーメンを食べてはいないので味覚的にわからないが、動画などで観るかぎり、カニやホタテやらの高級食材がこれ見よがしに使用されている。
日本人のまじめさが、原価になっているために外国人観光客からのクレームにならないのだろう。
むしろ、「当然の価格」という評価らしいのは、もっと見た目も味も劣るものが、「本国」で同様の料金となっているからだと説明がある。
前に、スイスの例を書いたが、もはやスイスではふつうのランチが5000円するし、ディナーともなれば1万円を越えるのは、当たり前なのである。
なにせ、「ビッグマック」が2000円なのだ。
価格については、アラブの事例も書いたけどここで再掲する。
売る側の表示設定と、買う側の価値判断にギャップがあれば、かならず日本人の目には「価格交渉」が行われる。
彼らの日常として、この行為は、「価値の調和」をやっているのである。
これには、神との契約による「予定調和」が信仰の基礎にあるからといえる。
つまり、日本的ではないという価値観の断絶がきわめて大きな意味をもっていることが重要なのだ。
たとえば、ここでいう「日本的」とは、東京を基準にした関東人の感覚を指すのだけれど、ずっと日本の中心地だった「畿内」のひとたちの原初的国際感覚が、いまはアジア的日常になっているとかんがえられ、そのちがいは歴然としているのである。
もっとも端的で興味深い実態は、やっぱり、「大阪のおばちゃん」の行動様式(「エートス」という)を観察するとみえてくる。
だから、関東人を標準的日本人だと決めつけると、日本人理解をまちがえるのである。
関東人の自虐ではなく、関東の田舎者、というのは、的を射ているのである。
だから、関東から離れるほどに、「日本人」の実質があらわれるので、北海道のニセコもこれにあたるとおもえば、腑に落ちるのである。
ニセコの開拓は、有島武郎の父(薩摩藩士・大蔵官僚)、母も薩摩藩士の娘で、関東人ではない人物によっておこなわれた。
この意味で、ラーメンが2000円とか4000円しても、「価値の調和」という国際的な経済観念からしたら、買い手にとってもその価値があると認識されれば、「相場」としてあり、が結論になる。
逆に、そんな価格での価値はない、と判断されたら、たちまち「価格調整」しないと売れない、という現象になるのである。
まことに、ミクロ経済学の教科書通りの事象となる。
世界的に日本だけの事象になった、「30年間も続くデフレ」が、ミクロ経済学の教科書から外れまくったのはなぜか?をかんがえると、教科書通りの経済条件が日本にはないことの事象なのだ、とかんがえた方が妥当ではないのか?
これぞ、「日本の特殊性」であって、「安くしないと売れない」という経営者たちの横並び発想自体が、もう経済学の範疇を超えて、国民心理の社会学に転換してかんがえないと埒が明かないのであるけれど、エリート専門家はそんな発想をしないで、あくまでも現実を教科書(ほとんどアメリカ人の発想)に合わせるから対策が対策にならないのである。
すると、いかに「外国人観光客向け」という枕詞がついても、適正原価による適正価格の設定での結果としてできた、4000円のラーメンとは、ミクロ経済学の教科書通りの関東感覚の「日本的ではない」経営者による商品価格設定としては、しごく当然なのである。
しかし、どういうわけか?「二重価格」の問題が別にでてきたから、はなしが複雑になっている。
「同じ商品」なのに、外国人向けと日本人向けのふたつの価格がある、ということだ。
結論からいえば、外国人なら高価に設定し、日本人なら国内市場価格だというのは、いただけない差別であるし、残念なことである。
ただし、国内市場価格と国際市場価格の「乖離」という観点からすると、面倒な「内外価格差」の大問題が登場することは覚えていていい。
さらにこの議論は、どうやって外国人だと認定するのか?というもっとややこしい問題に発展しているらしいから、呆れるのである。
国際的に通用する、「各国人の定義」にある、「日本人の定義」とは、日本に住んでいて日本語を話す、というたったふたつの条件を満たすことで定義されている。
どんどん変わる、日本国籍の取得条件とか、移民・難民認定条件のことではないので念のため。
わが国の国際化をかんがえる上で、長崎のグラバー氏の子息(Ⅱ世)の倉場富三郎氏がいい例となっている。
富三郎氏は、母はツルという名のひとで、日本生まれ日本国籍にして、日本語を話すひとだった。
しかし、顔つきは父譲りのスコットランド人であったのである。
父のグラーバー氏は、悪名高き「ジャーディン・マセソン商会」の代理人で武器商人を本業とし、坂本龍馬と取引していたことは、幕末ロマンとして有名だ。
坂本龍馬とは何者なのか?は、ここでは議論しない。
ようは、倉場氏と似たような日本人はいまどきたくさんいるから「見た目」だけで判断したらトラブルになるのは容易に想像できるのだが、この議論にはそれが欠如しているのである。
自由経済圏として、ラーメンが4000円しようが、それはそれだが、あたかも国籍条項を定めるのはナンセンスだ。
ちなみに、「景表法(景品表示法)」では、原則二重価格は禁止されているので、条文チェックをするだけで終わる議論を延々とするのはムダである。
なお、本法は公正取引委員会から消費者庁に移管されたものの、長官が公取に調査権限の委任をするという建て付けだけでも、消費者への欺瞞的な存在が「消費者庁」だとわかるのだ。
さて、この外国人差別の背景に、「神との契約」もなく、ただの「貧困化」から、持てる者からぶんどればいいという、江戸期の「雲助」のごとく発想が復活していることの精神の衰退が、さらなる貧困化になると認識すべきなのである。
それで、バイデンが「日本人は外国人が嫌い」といったのなら、あんがいとボケてはいないが、移民をもっと受け入れろといったから、やっぱり大ボケ爺様になっている。
今後の議論は、「尊皇攘夷」になるのではないか?
日本衰退・貧困化の例が、日本人女性グループを狙った、たとえばハワイにおける入国拒否だし、韓国における摘発となったのである。
キーワードは、「売春」で、とうとう日本人の若い女性が複数いると、「出稼ぎ」とか「ご商売?」という目で見られるまでに世界は変化しているのである。
これも決して大袈裟ではなく、外国人だから高く売りつけることの発展形なのだ。
ヨーロッパ(EU)の首都、ベルギー政府が売春(婦・夫)を、とうとう「国家管理」にした。
この制度はもう、かつての「赤線」どころのはなしではなく、幕府が認可した吉原遊郭の「公娼」をも越えた、「公務員扱い」の人事管理が行われ、きっちりした就業時間と休暇制度の遵守だけでなく、客をとらないと就業拒否を適用されて本人に罰則・罰金が課せられるのである。
もうひとつの、日本の未来が、すでにベルギーで実現している。
たかがラーメンのはなしではないのである。