大正時代の「小」日本主義

明治からのわが国近代史で、どういうわけか軽視あるいは無視されているのが短かった「大正」の時代である。

だが、あらためて大正期を観察すると、じつは明治よりもずっと21世紀の今・現在への影響が強いのである。

それは、「明治が到達した」ひとつの「完成形」であるからだ。

なので、大正期の選択から、「昭和」が出来上がっているともいえて、残念ながら昭和が選択しなかったことに「小・日本主義」がある。
昭和は、「大・東亜」という、日本よりももっと広大な「日本主義」を選択して破れたのだった。

このとき、「小・日本主義」の提案者も、これを社会のリーダーとして採用しなかったのも、「幕末」あるいは「明治」生まれのひとたちだったことは、「令和」の今を仕切っているのが、おおむね「昭和・後期(戦後)」生まれだということとおなじである。

今の若者(「平成」生まれ)の間で、「昭和回帰」があったのと、昭和の50年代に「大正回帰(「大正ロマン」と呼んだ)」があったことは、妙に一致することなのである。
だから、明治34年(1901年)生まれの俳人、中村草田男が昭和6年(30歳)に詠んだ「降る雪や明治は遠くなりにけり」が、「名句」になったのである。

そこで、大正期に話題となった「小・日本主義」とはなんだったのか?をいまさらに再考するのは、あんがいと価値がある。
しかも、いま、わが国は、人口減少なる「縮小」の過程にあるからなおさらなのである。

「小・日本主義」をかんたんにいうと、「帝国主義に反対して、国内の改革と個人の自由な活動」によって、国民の福祉を改善してゆく「主義」をさす。

つまるところ、アルゼンチンのミレイ政権が採用している、真の「自由主義(リバタリアニズム)」(経済学では「オーストリア学派」または「ウィーン学派」ともいう)の説のことであるし、じつは今でいう「反グローバリズム」でもある。

悪辣なグローバリストたちは、「新自由主義」をわざと曲解解釈して宣伝したので、「新自由主義」はあたかも「悪いこと」に定義されてしまったが、グローバリストたちが進めたモノこそが、彼らのいう「(悪の)新自由主義」だから、まったくもって支離滅裂なのは、「言葉の意味を変える」という共産主義の常套手段なのである。

つまり、アルゼンチン・ミレイ政権の「新(真)自由主義」をなんと呼ぶか?が混乱する変な話になっている。

上の定義文に戻ると、当時の「帝国主義」とは、いまの「グローバリズム」のことで、当時の「改革」とは、わが国でバブル後にやったさまざまな「改革」とは真逆の、「国家の介入を縮小する」という意味の「改革」のことである。

それで、当時の「国民の福祉改善」とは、現代の福祉国家を強固にすることではなくて、国民所得を増やす、という意味が先にある、国やらに依存しないで生涯自立できる国民にする、ということである。

こんな重要な選択を、大正期の日本人はせずに、グローバル全体主義に陥って、とうとう自由なき社会となり、挙句に全国民が破産状態になったのは、なにも「敗戦」だけが理由ではない。

もしも、連合艦隊の主力を失ったミッドウェー海戦での大敗北直後に、たとえ停戦・和平となっていても、国民の生活苦はおいそれと改善なんかしなかったろうと想像できるからである。

なにせ、戦争を仕掛けたアメリカの意図は、大国となった日本に二度とアメリカへの反逆を許さないという、半世紀がかりの「戦争目的(プラン)」があったのだ。

そこで、あえて、「小・日本主義」を選択していたらどうなったのか?

むろん、小=敗北主義ではない。

いかんせん、タイミングが重要で、大正期の大戦景気(第一次大戦)で浮ついた日本人の精神=拝金主義があったことと、こうしたカネさえあればの自信(虚心)を背景に、ベルサイユ会議における「人種差別廃止論」が、まったくの時期早々であったために、英・米の白人市場主義者たちから睨まれることになってしまった。

この「睨み」が、「戦後」も消えるどころか強化されて現在がある。

そこで、いかに日本人を「骨抜き」にするか?という大命題の下、徹底的な「敗北主義」を擦り込まれて、とうとうイランで、あるいはその周辺でなにが起きているか?にさえ、関心を持たないように、テレビはいつものバラエティーをたれ流し、電車の中では読書ではなく、スマホゲームやら動画に興じるのがふつうになったのである。

つまり、大正期に二択となった「小・日本主義」対「大・日本主義」が、たった20年後の昭和20年の敗戦で、ついに「敗北主義」に転換させられて、そのままに固定化されて、そのためにアメリカ民主党配下のGHQによって無理くり作られた支配政党が「自民党:民主党日本支部」だったのである。

よって、駐アルゼンチン日本大使の人事も、むかしながらの「序列」が変わらずにいるのではないか?
いまなら、国連大使並みの大物が駐在すべきであろう。

その国連は、トランプ政権2.0からの予算支出拒否にあって、破産寸前なために、イラン攻撃にまったくの「無力=存在のムダ」を示し、日本人にはありえないほど高給取りの職員たちは、自身の給与遅配に怯える始末なのである。

これぞ、拝金主義の末路なのである。

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