わが家は山門派天台宗の檀家である。
「山門派」とは、ふつうわざわざいわないのは、あの比叡山のことだからである。
それで、分派した「寺門派」の三井寺とあえて別だというときにいう。
わが国に「仏教」が伝わったのは、欽明天皇の御代で、時代区分では「古墳時代」ということになっている。
「仏教」は、紀元前500年ぐらいにゴータマ・シッダールタ(釈迦)が悟りを開いたことによる。
問題は、そこからの長い年月と、「伝来」による、「伝言ゲーム」によって、釈迦のオリジナルと「その後の解釈」が混じってしまったことによる。
それゆえに、いわゆる「経典宗教」の側から、仏教は経典宗教としては認知されていない。
古墳時代から欽明天皇の娘である推古天皇の皇太子、聖徳太子の法隆寺・四天王寺が建立された飛鳥時代を経て、「奈良の都=平城京」になって、いわゆる「南都六宗」が形成された。
これらが強すぎるとして、遷都したのが平安京で、その鬼門にあたる比叡山にあるのが最初の「大師」となった最澄の延暦寺である。
ここで注目したいのが、「戒律・戒壇」の制度で、わが国におけるはじめは鑑真によったが時間とともに「なぁなぁ」となり、ついに伝教大師最澄による「菩薩戒」が画期をなす。
あまりのことに、南都仏教界はこれをみとめず、「最澄没後」にようやくにして「大乗戒壇」が許されたという経緯がある。
これは、「なぁなぁの認可」とも解釈できるもので、釈迦が提唱した「仏教」の本質的な意味での「別物化」なのである。
なにせ、自己申告による「自誓受戒」も認めていたのだ。
どういうことかといえば、それまで戒律による「受戒」なくして僧侶=比丘にはなれないものを、とにかく公式に「なぁなぁ」にしたからである。
なので、大陸の中国仏教ではこれを認めないため、日本からの留学僧は僧として受け入れられないという国際問題にもなったのである。
それで、鎌倉時代になると、天台宗から派生した宗派(浄土宗、一向宗、日蓮宗)は、どれもこれも「ユルユル」なために、僧籍とはなんぞや?という身分形成上の大問題となったのである。
これがひとつの頂点に達したのが、信長による叡山焼き討ちだったし、その後の一向宗徒の一揆に対する厳しい対応となる。
これらの事情をわきまえたうえで、16日の報道による天台宗での性被害に関する処分の記事が読める、というものだ。
まず、「宗門内の裁判」結果が出たのである。
弁護士は今後のことは本人と相談して決める、としているので、世俗世界の裁判とするのか?が注目される。
日本における宗教の立ち位置は、啓典宗教の代表たるキリスト教世界や、イスラム教世界、はたまたユダヤ教世界とはまったく異なるのが特徴だ。
徳川幕府の巧妙な「檀家制度」への宗教の押し込めで、信仰自体がえらく形骸化したのだが、これをまた巧妙に、「日本教」として落とし込んだのが幕末から明治にかけてのことだった。
そんなわけで、宗門の内と外という概念が、わが国の場合いったいどこまで通用するものか?が問われることとしてみれば、その壁の薄くて低いことの方が意外なほどなのである。
さらに、仏教における「救済」とは、個人の救済であった。
そのために、個人は生きながら修行を積んで悟りを得ることが必要と説く。
それで、極楽浄土へ向かうのか地獄に落ちるのかは、自分で自分を裁くこととなるために、清浄な精神をもっているかそうでないかが問われるものなのである。
ところが、「大乗仏教」の発明で、集団処罰=救済の要素を加えたのである。
集団を救済するのは、儒教の影響だろう。
儒教では、「よい政治」でもって集団を救済するからである。
しかし、天台宗が「鎮護国家」を唱えたのは、「よい政治」という意味ではなく、「祈祷」によったのである。
この点で、むしろ集団処罰=救済のユダヤ教に寄っている。
また、祈祷には「密教」の要素を用い、これは弘法大師が開いた真言宗に分があるとして、最澄は空海に「教えを請う」が断られるエピソードが残っている。
密教で「護摩を焚く」のは、ゾロアスター教の影響だとかんがえられるし、「密教」と書くこともおおくの「教典」も、漢字には意味はなくサンスクリット語の発音の書きかえにすぎない。
これは、イギリスを「英吉利」と書いたことから、「英」と「国」をつけて「英国」としたとか、アメリカを「亜米利加」と書いて、「米」と「国」で「米国」としたようなものなのである。
ときに、今回は「千日回峰行」を達成した「大阿闍梨」まで関与が疑われたのだったが、この達成に超人的な体力と精神力を要する「修行」をもってするのは、行者個人の救済だけでなく、本人が「生き仏」として参拝の対象になることも重要な特徴なのである。
さては、「末法の世」が平安時代から1000年ほど続いているのが、現在だと前に書いたが、信長による叡山焼き討ちからほとんど進化がないことを示したのが、今回の事象なのである。
日本仏教は、あたらしい「末法対策」を、そろそろ発明してもよさそうだがいかに?