少子化時代に多産をいうのは、なぜか憚れる時代になった。
マリア・テレジアといえば、オーストリア・ハプスブルク帝国の女帝で有名だが、その第9子こそが、マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・オートリッシュである。
1976年(昭和51年)に世にでた池田理代子の『ベルサイユのばら』は、あまりにも有名で、その多くが史実に基づく(ツヴァイクの『マリー・アントワネット』を参考としたという)とされる歴史絵巻のオリジナルフィクションとの混み合わせが秀逸なのはいうまでもなく、作家はフランス政府から「レジオン・ドヌール勲章(第五等:シュヴァリエ)」が2009年に授与されている。
もちろん、伝記の大家ツヴァイクも、あんがいと「講釈師みてきたような嘘をいい」の記述があるから、別途、最低でももう一冊ぐらいは読んでおいた方がいい。
とくに刺激的な、「パンが無いならお菓子を食べればいい」という歴史的なセリフとされる一言のデマがいまでも信じられている背景に、マリア・テレジアが按じたマリー・アントワネットの「深くかんがえない」性格についての不吉な予感が適中し、フランス宮廷での放蕩・贅沢三昧があったことは確かであるからだ。
原典はジャン・ジャック・ルソーの著述だというが、これが発表されたのはマリー・アントワネットがまだ8歳のウィーン暮らし中だから、誰が言ったのかを書かなかったルソーの創作だったかもしれない。
ときに、高価だったとはいえ、フランスはいまに続くアフリカやらの植民地化で、砂糖が一般化して、たしかに砂糖をふんだんにつかったお菓子が身近になっていた時代背景もある。
その典型が、西アフリカの奴隷労働から得られるカカオをつかったチョコレートだと、何回か書いてきた。
太陽王ルイ14世が絶対王政を築き、ブルボン王朝の最盛期をむかえることとなったが、その死を扱った映画『ルイ14世の死』は、絶頂から次は転落しかないことを暗示する名作だった。
そのルイ14世からルイ15世、それからルイ16世という曾孫と孫への王位継承は、この意味で慣性の法則が作動するだけの歴史なのである。
ここで、『ベルサイユのばら』文庫版第1巻から、その社会的慣性の法則をみてみよう。
P.223 王族にケガをさせて首がとばなかったのはおまえくらいだぞアンドレ むかしならやきごてと煮え湯で拷問のうえ車裂きだからな
P.240 1774年5月10日午後3時15分…ものすごい臨終の苦しみは終わった…… 黒々とふくれあがりくさりはてて顔もみわけがつかぬほどになったフランス国王ルイ15世の逝去であった
P.245 いまや古い時代は去った 若々しい19歳の国王と18歳の王妃……! フランス国民は熱狂し期待に胸をはずませてふたりをむかえた
このふたりが、断頭台の露と消える運命を読者はしっている。
そのフランスで、いま、王党派の復活があり、もしや「王政復古」だって?という状況がうまれているという。
これを、「もぎせかチャンネル」の茂木誠先生が対談動画をアップしている。
お相手は、日・仏(白百合と菊Lys et Chrysanthème)国体研究家にして「王党派」のポール・ド・ラクビビエ先生である。
ここで「国体」とは、日本なら天皇家(菊)、フランスならブルボン王朝(白百合)をいう。
じっさいにブルボン家ゆかりの貴族の血統を多少とも受け継いでいるラクビビエ氏は、フランス革命に逃れた王統がいまもスペインに存在し、数えれば「ルイ20世」になるという。
これが、マリーヌ・ル・ペンの政党との親密性で、「もしや」という。
フランスにおける「保守」とは、「王党派」のことだからで、実の娘たる「国民連合」党首のマリーヌ・ル・ペンに追放された父、ジャン=マリー・ル・ペンが創設した「国民戦線」は、もっとも王党派と親密だったという。
しかし、それでは支持者の範囲がせまく限定的だからとして、政権奪取のために実父を追放したのが娘だった。
これは、日本でぼーっとして生きていたらわからない情報である。
しかして、フランスは王党派が復活するのか?
そこで、どのような王朝が樹立されるのか?
まさか放蕩を繰り返すことにはならないだろうけれども、これを支える「貴族」たちがしっかり生き残っていることも、ヨーロッパなのである。
いまだに名前で身分をわけるのがまたヨーロッパで、ドイツの貴族には、「フォン:Von」または新興のそれには、「ツー:Zu」がつくし、ポーランドなら語尾に「スキー:-ski」がつく。
フランスでは「ド:de」なのだが、名前の管理が甘く庶民が勝手に自分の名前につけたから、やや眉唾の感がある。
本稿冒頭のマリー・アントワネットのオーストリーでの本名にも、「de」がある。
こうして、日本人には想像も出来ない中世以来の身分社会が続いているのである。