小沢一郎の立憲消滅予言

2025年参議院通常選挙が終わっても、自民党は「総括」できないままに、1日の臨時国会を迎えた。

しかし、大敗を期したのは自民党だけでなく、野党第一党を自負していた立憲民主党も散々な結果であったのだ。
なんと前回の得票数比較では、自民党よりも減らし、総得票数の実数なら野党で参政党、国民民主に次いで3位に甘んじるという無残であった。

自民党幹事長として、総理候補を自ら面談するという権力の絶頂にあった小沢氏は、衆議院選挙制度改革でいまの「小選挙区・比例代表並立制」を設計した人物としても知られる、選挙(制度)のプロである。

その小沢氏が、此度の参議院選挙の結果を受けて、次期衆議院総選挙で自党である立憲民主党の消滅を予測することを公言するまでの事態になっているから笑えない。

御歳83歳とはいえ、かつて「政局の小沢」といわれたことは、伊達ではない。

果たしてわたしは、この御仁が何をしたかったのか?いまだに理解不明なのであるけれど、それはあくまで「政策」のことで、「政局」のことではない。

なにしろ、「グローバリズム」やら「グローバリスト」という言葉がなかった時代に、自衛隊を国連指揮下に差し出すといいだした、国連信奉主義者=グローバリストのさきがけであった。

この本性が、いまも一切曲がっていないことは、それなりの評価に値するのだろうが、わたしはまったく評価できないただの国家観が欠如した左翼である。

しかし、このひとの動物的ともいえる政局の嗅覚から導かれる「消滅」の懸念は、十分に理屈が立っている。

おそらく、小沢氏も経験したことのない「地殻変動」を今回の参議院選挙で感じたのであろう。
それが、最大の層だった「無党派層」の急速な消滅すなわち「保守回帰」といわれる雪崩をうったような現象なのである。

いわゆる、山が動いた、のである。

もちろんこの現象は、一過性のブームではないことも小沢氏は読み取っていることだろう。
それが、上に挙げた参政党と国民民主への票の流れで理解できる。

つまるところ、戦後政治の終焉を意味する激変が起きているのである。

これまで自・公に対抗するのが立憲民主「だけ」だったというお決まりのパターンから、仕方なく得票することができていたものを、自党の実力だと勘違い(自己欺瞞)してきてはみたが、とうとう全選挙区に参政党が候補を立ったことで、真の選択肢を得た国民は、あっさりと嫌悪する立憲を捨てたのである。

しかも、文学表現ではなくて、本当に共産党と選挙協力するにいたって、名実共に「立憲共産党」になったことの政治判断が、まったくナンセンスと国民は解釈した。

その投票行動が、参政党の大躍進となって、これを国民が「成功体験」として実感したことの学習効果が、次期衆議院総選挙でも繰り返されることは必定なのである。

国民に、「選挙はおもしろい」と体験させたことの意味はおおきい。

しかも、国民は、自民党や公明党よりも、より厳しい忌避行動を立憲民主党に向けたのだった。
もちろん、双生児兄弟党の国民民主も、公認候補の選択に失敗して大ブレーキとなったが、まだマスコミが応援する効果で「躍進」することにはなった。

だが、選挙中にひと言も主張しなかった「選択的夫婦別姓制度=強制的家族別姓=戸籍制度破壊=家族解体」という共産化政策を、国会が開会するやさっそく主張する「だまし」に、国民は再び学習するにいたったのである。

こうして、次期衆議院議員総選挙における国民不満の「マグマだまり」が形成されている。

立憲民主党(国民民主も)はこのような自身の失策を打ち消そうとしようにも、「政策のタマ」がないという薄ら寒い現実が両党のアキレス腱なのだと誰の目にも明らかになったが、だからといってタマになる政策をすぐさま打ち出せるような党組織(共に連合が支持母体)でもない絶望がある。

これをもって、絶滅危惧をいう小沢氏にも起死回生の政策がないのは、あくまでも政局のひとだからである。

参政党の神谷氏が選挙中の街頭演説で繰り返したように、他党が参政党の政策に接近あるいはパクってくるとの予想が、おそらく正解であろう。

それで、参政党が「よし」とするのは、政策の実現が早まるという一点の理由だからだ。

すでに瀕死の石破自公政権が、このとおりのことをはじめている。

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