人間の人生は短く、かつ、あんがいと記憶もあいまいだ。
脳が自分に都合のよい記憶をつくりだすこともわかってきている。
量子論の世界はわれわれ一般人の生活にはおよそ他人事になっているけど、あらゆる物質の成り立ちを示すものだから、その奇想天外な論にはある程度身近でありたいものである。
そこで、本物の学者先生は、難しい理論を易しく解説してくれるのだが、これはこれで説明に時間を要するから、気のはやいひとには敬遠される。
わからなくてもがまんして見聞きしていると、なんとなくのイメージはできる。
ただ、「時間は存在しない」ということをなかなか理解できないでいる。
中学卒業時のクラス会などでいつも話題になる学校生活での昔話にも、集団で勘違いしていることがあるから、やっぱり脳が記憶するだけでは危ないのである。
そんなわけで、『卒業文集』とかが、当時のリアルな「証拠」として役に立つ。
いまの先生たちが、どこまでクラスの子供たちが一生の付き合いをするのかに興味あるのかはしらないが、5年程前に亡くなったわたしの中学3年時の学級担任(国語)は、このあたりを当時は「異常」とおもわれるほど固執していた。
新編成された3年の4月冒頭、卒業までの記録と卒業後の保存のために、おおきな蓋付きのゴミバケツを2個用意して、卒業前に学校の敷地に埋めたのだった。
ときにこれを「タイム・カプセル」と呼んでいた。
どういう申し送りを学校に残したかもしらないが、この先生が別の中学校の校長で定年退職するときに、声がかかって「タイム・カプセル」の掘り起こしをやったのである。
卒業後、四半世紀が過ぎてのことだった。
出てきたのはガラクタのようなものばかりだが、なぜにこれを埋設保存するのかを書きとめた、「リスト兼理由書」があって、その「お宝性」に驚いたのである。
まさに、「狭い子供の世界の珍品」なのであった。
残念ながら相当数の珍品は処分することとなったが、持主が特定できるものは本人に返還された。
『卒業文集』は、卒業時に配付されたけれど、わたしが書いた「修学旅行記」はその大量のページ数から当時は顰蹙を買ったけれど、いまでは「貴重な記録」扱いになっている。
これも、個々人の記憶が曖昧だからである。
そうやってかんがえると、近現代の時代考証には、時代時代に流行った時勢を扱った「(大衆)文学・小説」が役に立つ。
新聞の「縮版版」の注目は、そうした「作品の広告」で、それが「目録」の役割をしているからである。
もう中学校に入学して、半世紀がすぎた。
それでこのありさまなのだから、近代でなにがどうあって、それがどのように人々の生活に影響したのか?をしるには、それなりの小説やら紀行文あるいは映像にある記述が証拠になる。
たとえば、『仁義なき戦い』は、獄中手記をもとにした「ノンフィクション」だった。
戦後の日本が物騒だったことの象徴で、なにも広島だけの話ではない。
ではどうして、かくも日本が「物騒」だったのか?を追うには、かなり以前まで遡らないとわからない。
最低でも200年。
だとしたら、1700年代の日本人の生活・価値観の理解からスタートしないといけない。
「関ヶ原の戦い」から、100年後の世界である。
現代の出来事の根本を理解しようというなら、1800年代にそのタネがある。
わたしが、『東海道中膝栗毛』(1802年~14年)を重視するのは、ここに近代が描かれているからである。
同時期のヨーロッパで、「弥次喜多道中」があり得ないのはなぜか?
そこに、じつは日本の先進性とヨーロッパの後進性があるのだが、いつでもなんでもヨーロッパこそが先進なのだという誤解は、明治以降につくられたプロパガンダによる。
島崎藤村の『夜明け前』とは、ほんとうは伝統日本の「夕暮れ」だったのであるし、『家』の崩壊もしかり、である。
なので、現代の出来事をしるもう一つのエポックは、まちがいなく「明治維新」をよく観察することなのである。
すると、薩・長ともに、関ヶ原からの藩政を読み解く必要がでてくるのだ。
このとき、少なくとも当時とはちがう、たとえば「司馬遼太郎」を参考にしてはいけない。
わたしは、彼の作品をNHKの大河ドラマとおなじで、なるべくみないようにしているのは、ぜんぶがプロパガンダだからなのである。
そのNHKの時代考証担当ディレクターが、獅子文六『箱根山』(新潮社、1962:ちくま文庫)の「解説」で「小説が時代考証になる」と書いていると前に書いたとおりなのである。
なお、加山雄三と星由里子、他豪華俳優陣がが映画で共演している。
ところで、いま書店で売れまくっているのが、ガブリエル・ガルシア=マルケスの1982年ノーベル賞受賞作『百年の孤独』で、理由は先月、文庫本(新潮文庫)になったからだという。
本が売れない、本を読まない時代のヒットになった。
電子版がないのは残念だけど。
この不思議な物語は、「マジック・リアリズム」という手法で文学界に衝撃を与えたというけれど、抽象的に表現されているのは「人間組織の運命」とも読める。
組織リーダーを欠いた組織は、やがて滅びるという、まったくの経営論でもある。
なるほど、わがクラスも、先生亡き後の集結力が各段に下がったのは、まったく100年を要しないスピードでのリアルなのである。
じつは、クラス会を装った、「先生を囲む会」を先生自身がプロデュースしていたのである。
この意味で、この人類を魅了した小説は時空を越えて「時代考証」になるのだろう。