歴史研究なかでも「ホテル経営史」の空白に、寺院の宿としての役割のことがあると、井上章一氏が『京都嫌い』で書いている。
同書によればたとえば、「本能寺の変」の研究で、織田信長の死にまつわることはさかんだが、なぜ信長は上洛の際に「本能寺」を「定宿」としていたのか?が不明なのだという。
それに、信長は、京都に拠点を建設しなかったのではなくて、途中で中止しているのも歴史なのだ。
つまり、信長は、自前の宿(いまでいえば「別荘」)のムダに気づいて、たまたまサービスが万全な「本能寺」を定宿にすることで経費削減までも視野に入れていたのではないか?というのである。
こうしたことは、「南北朝以後」という時代からの流れとなっていないか?という指摘だ。
さらに、江戸城における「茶坊主」の存在につながるのではないか?というのも、おもしろい。
中華王朝なら「宦官」が隠然とした力をもったが、江戸城の茶坊主がそのコピーとはだれもかんがえていないし、そんなことはなかったろう。
しかしながら、あんがいと「茶坊主」とは何者か?をしらないままでいる。
「茶」を伝え、「喫茶」の風習を持ち込んだのは、「禅」の僧侶たちだった。
だから、「茶坊主」は、禅宗と関係があるはずだ。
武家のおおくが帰依したのが禅宗だったが、その統領たる徳川家の菩提寺は、天台宗の「寛永寺」だし、その後は、浄土宗の「増上寺」に替わる。
いったい菩提寺の変更には、なにがあったのか?
ところで、禅宗の寺院といえば、「茶の湯」とセットになった「庭園」がある。
はたして、庭園設計に「禅の思想」がどれほどの影響あるいは基底にあるのかについての解説は多数あるけれども、井上章一氏はこれも疑っているところがおもしろいのである。
氏は、逆転させて、宿泊客たる武将の趣味に乗じて設計・施工したのが「日本庭園」ではないかという。
もちろん、その武将たちは禅宗の信者でもある。
つまり、営業的だった、と。
ときに、いまにつづく「檀家制度」は、徳川幕府の発明だから、南北朝から関ヶ原までは、信者が寺院経済を直接に支えていた。
それが、戦国大名ともなれば、寄進額も競争的に拡大しただろう。
ここに、寺院業界の目の付け所がうまれるのである。
幕府を滅亡させた明治政府は、対外的には実質的に大英帝国の傘下にありながら、対内的には内弁慶的な強権政治をおこなった。
「廃仏毀釈」も、キリスト教社会への順応という欧化のためにしたとはいえ、広大な寺院の土地を「召し上げ」たのは、幕府的な保護の逆ではあるものの、大名に対する「改易」のような感覚ではなかったか?
しかして、その土地を「政商」やらに払い下げた。
そこでまた、買い手が払った「カネ」は、ちゃんと「国庫」に入金されたのか?どうなのか?はよく分からず、いわゆる「裏金」として「明治政府高官」の懐へ収まったのではないか?
そのすさまじさは、「華族」や「元老」たちの壮大な私邸・別荘に残っている。
そのまた跡地がホテルになっているのである。
しかるに、江戸時代の「封建制」とは、封建領主が土地を所有していた。
だから、大名が江戸に構えた屋敷もみな、幕府からの「借地」だったし、いまのような「賃借人有利」な制度でもない。
この意味で、吉良邸の例はわかりやすいし、「プリンスホテル」の敷地の歴史は、「斜陽」そのものであった。
これが、外国へ行くと事情がまったくことなる。
たとえば、ワシントンポスト紙が報じた、「ギリシャ島作戦」なる秘密基地建設計画の曝露で、契約を打ち切ったことが判明したと、「カナダ人ニュース」さんが伝えている。
リゾートホテルの地下に、連邦議員たちの避難所を建設することに協力してくれれば、地上のホテル部分も国家がカネを出すというものだ。
いまは、見学できるというが、入場料金は日本円で10万円をこえる。
ホテルの広大な庭の地下がどうなっているのか?を妄想でなく、現実として実際にあった話になっている。
そうかんがえると、信長は「本能寺」から通りの向こうにあった「南蛮寺(教会堂)」まで、地下通路で抜け出いたという「説」もおもしろいし、さいきんのそもそも「本能寺の変」自体が、信長と明智光秀と秀吉の三人の謀議によるというはなしもおもしろい。
信長が、ローマに行きたいと言い出して、これをどう実現するかを三人で協議し実行したというのである。
香港では、信長一行を「天正の少年使節」に混ぜて出航したという記録らしきモノがあるというから、あながち歴史ロマンだと決めつけられないのである。
この「変」の後、本能寺はいまの場所へ移転し、南蛮寺は取り壊されている。
本能寺の僧たちはどうしていたのか?
日本庭園にも、あんがいと「ギリシャ島作戦」のはるか先に行く機能があったのかもしれない。