大学全入を達成したのがいいことなのか?と問えば、手に職をつけさせる価値観からしたら、間に合わない、という意見も根強い。
江戸末期・明治の初めからしたら、40代だった寿命が倍の80代に伸びたので、修行時間に余裕ができて間に合わないということはなかろうとかんがえたくなるけれど、五感(味覚、臭覚、聴覚、視覚、触覚)の発達時期(10代のはじめ)に繰り返し訓練することで、身体に覚え込ませる必要性からの間に合わないだから、寿命が伸びたこととは関係ない。
むしろ、むかしのひとが成人するまでの10年で覚えたものを、20年かかってその間の収入が覚束ないとなれば、職人稼業を選択することのリスクは、大きくなってしまう。
それで、職人(その道のプロ)が足りない=人手不足、という事態にもなっている。
働かせ方として、丁稚奉公の合理性はここにあった。
むろん今どき、丁稚奉公を復活させることをいいたいのではないが、一流の職人になるなら中卒でも間に合わない、という名人級の意見を無視するのもいかがかとおもうのである。
最終工程で人間の触覚を頼りにする精密機器のメーカーが、どうしたら次世代の名人(名機ではない)をつくれるのか?に苦心しているのは、10歳の子供の手が覚える超精密な感覚を、20代になった大卒技術者がぜったいに修得できないことの事実からの悩みなのである。
女性に深刻なお肌の衰えとおなじで、人間の触覚(味覚や臭覚も同様)も、10代をピークにして退化をはじめるからである。
これは、食品工業での味覚や臭覚による官能検査員でもいえることだ。
戦後GHQによる新制学校制度が、それまでのドイツ型複線制度から、単線リニア型に強制変更させられた悪意の意図が、70年以上の時を経て顕在化して見えるようになってきた。
もう40年以上も前になる、「行政改革」(第二次臨時行政調査会:土光臨調)からずっと、なにかと「改革」をしてきた成果が、日本経済の衰退であったのだから、これもふつうにかんがえたら失敗と認識して、元に戻すような路線変更をするべきが、だれもいわない不思議がある。
とくに学校制度は、どんどん悪い方向に向かって、とうとう高等学校無償化という共産主義政策が白昼堂々と議決されるようになってきている。
前にも書いたが、マルクス、エンゲルスが書いた悪魔本、『共産党宣言』に、きっちりと教育の無償化が記載されている。
その意図とは、教育費を負担する国家(行政府)が、教育(機関と内容)を一元管理して、ひとつの価値観だけを子供に擦り込むことを目論むからである。
それで共産主義者たちは先回りして、学術界を占領した。
これが、日本学術会議という、ルイセンコ型科学アカデミーであって、会員は国家公務員扱いとなる。
ここが話題になったのは、軍事技術に関わる可能性があるとして、ある大学の科学研究を中止させたことであった。
しかし、このことよりも、菅内閣が新規会員に推薦された数名を拒否したことの方が大々的に報じられたのは、「学問の自由」をたてにした屁理屈だったからである。
全体主義者たちのお家芸ともいえる、ダブルスタンダード(二重規範)はここにもあって、学術会議メンバーになることの学問の自由と、大学での研究を中止させる学問の自由が共存することだ。
これに、教えない、話題にしない、言論封鎖する、という学問の自由が加わる。
その典型が、軍事である。
平和国家だから、わが国の生徒や学生(将来の日本人)には、軍事を教えてはならないと決めるのも、学問の自由をいってはばかるどころか強く主張するひとたちの言動なのである。
しかし、クラウゼヴィッツを読めばすぐさまわかる、「外交の延長に戦争がある」こととは、戦争とは外交のひとつの結末なのであるし、停戦するにも外交がひつようなのである。
にもかかわらず、全体主義者たちは、なにがなんでも外交努力で戦争を回避せよという。
あたかも、クラウゼヴィッツをしらないかのようだが、そんはずはないわざとである。
そうやって、敵の手に落ちることを望んでいるからである。
これを、売国奴という。
軍事を学ぶことは、歴史や戦略を学ぶことと同義だ。
これを日本人の若者に教えないと決めるのは、歴史や戦略を学ぶな、ということである。
日本経済衰退の原因がみえてくる。
学問の自由を主張するひとたちが主張して矛盾を一切感じないのは、やっぱりバカだからか?