怖い「音楽の力」

1994年12月(日本では95年12月)に公開されたのが、『不滅の恋/ベートーベン』だった。

本物のベートーベンの遺書に残された「不滅の恋人」とは誰なのか?を当時の学術研究に基づく説をモチーフとしながら、ベートーベンの素顔の生活と音楽を関連づけた傑作である。
音楽は、サー・ゲオルグ・ショルティ指揮によるロンドン交響楽団のオリジナル演奏がこの映画のために録音されている豪華さだった。

映画のヨーロッパでのヒットとは別に、日本ではサントラ盤が異様に売れて、二枚目も発売されるほどの、ベートーベン入門CDになっていた。

作中、映画の語り部役の弟子に、ベートーベンが「音楽の力」について独白するシーンがある。
ひとは行進曲で歩き出し、ワルツで踊る、という一種の悪魔的な指摘に、弟子は驚嘆する。

西洋音楽しか習わなくなった日本人は、いま「邦楽」といえば、「J-POP」のことになった感があるけれど、雅楽からはじまる日本人の音楽は西洋音楽を拒否していることが痛快でもある。

ただそんな「邦楽」は、いまでは生活でも遠い世界になっている。

わたしは祖父とカラー放送前の白黒テレビ時代、昼の2時に東京タワーのスタジオから生放送していた『キンカン素人民謡名人戦』をよく観ていた。
こういう番組を、いまも覚えているのも「音楽の力」なのだろう。
ただし、民謡はどれも節回しが複雑で、なかなか覚えられるものではなかった。

似たような時期の1963年からはじまったNHK『新日本紀行』のテーマ音楽は冨田勲の名曲で、その民謡調の曲想が当時の日本の原風景を想起させながら、いま聴けばなんともいえない哀愁があるのは、原風景を失ったことでのことだろう。

だから、ここでいう原風景をしらないいまの若い日本人は、もしや退化しているのではないか?ともいえ、それがまた哀愁となるのである。

アニメに「聖地巡礼」があるのなら、『新日本紀行』巡礼もあっていい。

ニュースのはずなのに、音楽がついたことで違和感があったのは、2018年にあった、韓国海軍による自衛隊機へのレーダー照射事件における韓国側の報道でのことだった。
まるで、映画のような演出が「わざとらしさ」を独白したも同然だったが、素直に思考停止して視聴すればよくできていた。

昨今のテレビ報道における「偏向」問題で、日本の民放もこれとおなじ手法を用いて、映像に音楽をつけている。
その曲選びが、また、編集者の意図に沿っているので、素直に思考停止して視聴すると、すっかりその意図にはまり込むようになっているのはベートーベンの指摘通りなのである。

ニュース放送は意図的につくられている。

人間の脳は、柔軟ではあるけれど、何度もの刺激には「慣れる」ようにできている。
たとえば、むかし学生時代に、先輩のアパートに数日間籠もったことがあったけれども、この場所が在来鉄道の幹線が集中する線路の真横で、頻繁に通過する電車の音と振動がまるで『神田川』のようであったのに、しばらくしたらぜんぜん気にならなくなった。

とはいえ、やはりテレビ報道を観るのは脳に悪い。

それでYouTubeで、音楽家による解説番組を観ると「名曲」のなんたるかをしりえて納得がいく。

ベートーベンの後継者といえるブラームスが自身で「傑作」と評価した『交響曲第4番』が、どのような作曲テクニックとして複雑構造であっても、それが演奏されたら曲になっていて、素人が聴いても破綻しないことの奇跡は、つぎに何度も脳が勝手にリピートする原因なのだと合点した。

とにかくわたしの脳は、数々の名曲を押しやって、「ブラ4」を勝手にリピートするのである。

「耳について離れない」とはこのことだ。

ついでに、サガンの『ブラームスはお好き』(1959年)とセットになるものの、半世紀以上経った未来のフランスはそれどころではない
サルトルと親交があったという、実存主義作家としての彼女の筆致は、彼女が嫌ったフランスの延長によって、まさに懸念した通りになった、ともいえる。

なるほど、このようにして思考停止するとコントロールされるのか?

そこへいくと、どうなっているのかわからない日本の民謡が気になるのである。

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