日本のメディアもとうとう報じ始めたので、書いておく。
きっかけは昨年夏の、北戴河(ほくたいが)会議における、脳卒中を起こしたということになっているけれど、脳卒中を起こしたきっかけが、長老たちによる厳しい突き上げであったのではないか?
習近平は、毛沢東を信奉する人物でしられる。
なので、毛沢東とは何者か?ということになるわけで、いわゆる「親中」の本質そのものにかかわる問題になるのである。
失いつつある権力を再奪取するために仕掛けたのが、あの「文化大革命(「文革」という)」(1966年~1976か7年)であった。
若い紅衛兵たちが、赤い表紙の小冊子『毛沢東語録』を掲げて、「造反有理」を叫びながら、守旧派を次々と人民裁判にかけて暴れまわったものである。
これを、当時のわが国の左翼・マスコミは、やんやの喝さいで書き立てた。
終結した年が、1976年なのは毛沢東が亡くなったからで、77年説はそのあとも1年間は「慣性の法則」がはたらいたとするものである。
なんにせよ、当時の日本の「文化人」たちは、毛沢東を賛美していた。
しかし、その後、「四人組の失脚」から、鄧小平の「改革開放」へと大きく舵を切ってからの「親中」とは、まったく別の意味をもつようになった。
つまるところ、毛沢東は国を貧しく保つことが共産主義(党)発展の条件だと思考したのに対して、カネこそが党人の得るべき最高価値に切り替わったのである。
そこで、共産主義の理想に燃える習近平は、阿呆を装って、鄧小平➡︎江沢民➡︎胡錦濤らからの「後継者」となるまで臥薪嘗胆して、いったんその地位に就くや「独裁体制」を構築しだしたのであった。
ときに、カネに目がくらんでいるアメリカ民主党(=共和党主流派=ネオコン=戦争屋=グローバル全体主義)は、中国市場という伝統的幻想にとらわれて、「所得が増えれば民主化する(はず)」という政治スローガンをあみだし、かつ、永遠の敵国たる日・独の「刈り取り」を国家戦略としたのである。
歴史の「もしも」で、日本が「南満州鉄道(「満鉄」)」の運営利権を、アメリカ大陸横断鉄道で「鉄道王」といわれたハリマンと組んでいたら、第二次大戦の悲劇にならなかったのでは?という論があるけれども、「鉄道利権=沿線開発」とみれば、そんな甘いものではない。
鉄道運送業しかできなかった「国鉄」が、JRになって「鉄道利権の規制撤廃」でどうなったかをみれば一瞬いけそうだが、人口密度に依存する鉄道が、航空機の登場からその後の衰退(アメリカ大陸、北海道・九州・四国)をみればわかるだろう。
トランプ政権2.0が、「テキサス新幹線」への補助金を打ち切ったことがニュースになったが、その前に日本の「官民ファンド」が、撤退しているだけでなくすでに債権回収の動きとなっている。
さて、カネもうけに邁進した彼の国は、「党」が政府を完全支配するために、およそ「国=政府」という見方をしてはならない体制である。
すなわち、1億人あまりの党員が「大富豪」になり、3・4億人の経営層が「富豪」となって、それ以外は「奴隷」のままにおかれている。
「大富豪」は日本人の富豪よりも多くの資産を持ち、「富豪」は、日本人の一般人をとっくに凌駕する資産家である。
つまり、日本人はすでに「奴隷」並という状況にあるのは、「自・公・立憲」政権の「成果」なのである。
しかし、トランプ政権2.0による「関税」と、コロナ禍の原因(巨額の損害賠償請求のほのめかし)とのダブル・パンチで、習政権ではアメリカにやり込められる恐怖が起きたと想像する。
それで、恐慌=パニックに陥ったのは、「大富豪=党幹部」たちなのである。
彼らがなにに怯えているかといえば、おそらく、アメリカに構築した「多大な個人資産」が、トランプ政権2.0によって制裁・凍結される可能性の恐怖=パニックにちがいない。
しかし、だからといって政権交代させても、トランプ政権2.0からのリスクが消えることもないから、恐慌=パニック、なのである。
この集団心理による政変は、はたして成功するのか?
フランクルの名著、『夜と霧』をいかほどの党人が読んでいるのかしらないが、このアウシュビッツの生き残りにして臨床心理学者の発見が、役立っているようにはみえない。
人生の目標はなにか?を、精神の高さ、あるいは、善意といった観点から誤ると、残念が残る、と書いてあるのである。
しかしてこれらを、共産主義(党)という邪悪(自分さえ良ければそれで良い)に染まった者たちに要求すること自体が、矛盾しているのであろう。
トランプ政権2.0の大目標は、ロシアを中共から分離させることにあったが、中共側が勝手に動きだしたので、しばらく放置するのだろう。
それで、国際的な中共への投資を制限すれば、自滅するやもしれない大チャンスが到来した。
一方で、カネに目がくらんだわが国の「自・公・立憲」政権は、こうした大変化の兆しにまったく鈍感な風情なのである。
まずは軍権を失ったとされる習派は、どんな反撃を試みるのか?
あるいは、このまま消えてゆくのか?
毛沢東が、「文革」をはじめたようなエネルギーがまだあるのか?どうか?は、外部からはわからない。
しかして、歴史が繰り返されていることは確かなのである。