慈恵を正義に混ぜると混乱する理由

アダム・スミスの『道徳感情論』(1759年)を、どれほどのひとが読んでいるのか?と問えば、ほとんどいないのだろう。

関ヶ原の合戦を経験した武士から出家して、曹洞宗の僧になった鈴木正三(しょうさん)の『万民徳用』(1661:寛文元年※没後の刊行)が、仏教の側面から「職業倫理」を説いた初である。

それから、「石門心学」の祖、石田梅岩(ばいがん)の『都鄙(とひ)問答』(1739:元文4年)が、いわゆる「企業の社会的責任:CSR:Corporate Social Responsibility」を論じた最初となっている。

アダム・スミスどころか、その前に書かれたこれら日本人の著作を読んでいる日本人こそ、また少数なのだろう。
世に出された年代を改めて見たら、スミスの方がずっとあたらしいことも、日本人はもっと自慢していい。

これに50年代、アメリカで国民作家と評されたアイン・ランドがいう、「道徳的でないと資本主義は成立しない」ことの意味が、こうした古典からも理解できるのだが、道徳が地に落ちて、「剥き出しの欲望」が現れたら、もうそれは資本主義ではなく、ただの「帝国主義」に堕ちるのである。

そうやってかんがえると、資本主義の祖国のはずの英国は、おそらく資本主義が成立する間も無く、あっという間に帝国主義に堕ちていったと思われる。
これは、スミスの『道徳感情論』すら、専門書の扱いであって、決して英国人全体の道徳になったとはいえないからである。

現代日本人が、正三も、梅岩も読んでいないのと同様に、現代英国人もアダム・スミスを読んでいないのがわかるのである。

しかし、一層興味深いことに、われわれ日本人の歴史には正三を起点にした江戸中期から明治中期(日清戦争前)まで、「道徳の民」であったことは明らかなので、世界で唯一、資本主義を経験した民族といえるのである。

もちろん、この議論には「資本主義の定義」が重要となる。

ところが、「株式」を発行する「株式会社」の始まりが資本主義だとすると、始祖は英国ではなくてオランダになってしまう。

植民地インドネシアで設立した、オランダの「東インド会社」が、世界史初の株式発行会社であるからだ。
わが国に株式会社はなかったけれど、内国為替の発達はヨーロッパにおける小切手の発達に匹敵するかそれ以上だった。

十返舎一九のベストセラー、『東海道中膝栗毛』(1802〜14)で、弥次・喜多のコンビが三島宿で「ゴマの灰」にあってあり金を盗まれる事件が発生するが、府中(静岡)にいる友人に金を借りて落ち着くのである。

しかし、伊勢参拝を無事に終えたコンビは、京・大阪見物で無一文になり、なんらかの助け(詳細の記述はない)を受けて、なんと、木曽路から善光寺、妙義山を廻って江戸に帰るとして、第一編を終えている。

果たしてどんな助けがあって、帰路とはいえ徒歩での大旅行ができたものか?おおいに気になるところである。

時代想定はこれよりはるかにむかしとなる、『水戸黄門』は、時代考証におおいに疑問があるドラマだが、水戸に手紙を送って為替をもって旅先の両替商での現金化をする話が出てくる。
これが、いわゆる「旅為替」である。
旅の出立前に用意するのが「普通」という解説が別途ある。

そんなわけで、毒をもって日本人を滅亡せんとした「西側」の欧米人も、自らの毒に犯されてしまって同じく滅亡の危機に陥ったのである。

皮肉なことに、ソ連によるパワー・プレイに首をひそめて生きてきた東欧のひとたちが、同じくプーチン氏による共産主義の排除で蘇ったロシアと共に、西側の毒から逃れて「まともさ」を保っているのである。

アダム・スミスは、慈恵は個々の自然な感情によるとしたが、正義だけは厳罰を伴う「法」によるとした。
これが、18世紀まであった英国人の社会を見る常識メカニズムの解明だったのである。

いま、アダム・スミスを読んだ邪悪の者たちが、このメカニズムを悪用して、慈恵(寛容、人間愛、親切、同情、友情などの諸感情)を逆手にとって、これらの感情をあろうことか正義に振り替えているのである。

すると、「法」による正義の秩序を、「正義」の定義の内部から崩壊させることができる。

これが、国家やらによる「親切心の強要」となって、他人のためにも注射を打つことを「正義」にすり替えることに成功したし、LGBTQも同様で、先進国のアメリカでは、小学生が教師の誘導によって性転換手術を受け、保護者はこれを阻止することも反対意見を述べることさえ禁じられたのである。

なんと、学校の指導方針に反対する保護者は、「国内テロリスト認定」されて、FBIに逮捕・有罪・収監される時代になってしまった。

それもこれも、スミスは、「社会を支える土台は正義であって慈恵ではないと考えた」ことの悪用なのである。
だが、誤解してはならないのは、スミスのこのかんがえは、よく読めば真っ当なものだ。

慈恵を強制させる社会の方が、持続できない。

これが、移民によるさまざまな問題として顕在化したのである。
さらに、慈恵の正義化で、移民は犯罪を免除される不公正も正当化されている。

その目的が、秩序の破壊だからで、最大の邪魔者がトランプ氏なのである。

一方で、いまわかったようなことをいっているバイデンやら民主党の一味は、数日前の選挙資金集めパーティーで、「So,we`er done talking about the debate, it`s time to put Trump in a bull’seye.」(いまはもう討論なんかしている時ではなく、トランプを狙い撃ちにするときだ)といつものように「失言」したことが、犯人の青年の背中を押したのでは?と批判が起きていると、「黒森ミネオチャンネル」さんが伝えている。

ために、わが国のテレビはこれを一切報じず、むしろ「トランプがチャンスとばかりに事件を利用する」などという、視聴者に「憎悪」をあおることをやっていて、まことに道徳的ではないのである。

トランプ氏をかすめ、右耳を裂いた銃弾は、あと数センチで彼の頭部を撃破していたはずだし、死亡したり重体になった聴衆は、このはずれた弾にあたってしまったのである。

道徳が地に堕ちると、人々は不幸になると、アダム・スミスはいっている。

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