完全消費者たる政府が、経済活動に関与するのはまさに「消費=政府支出」しか方法がない。
なので、政府は、集めて配る、というピストン運動しかできないのである。
これを、福祉と絡めてしまうのは、はなしを正義に振り向けて、政府支出の増大があたかも打ち出の小槌のごとくにみせる欺瞞のロジックだから嵌まってはいけない。
たとえば、「高校無償化」がそれだ。
もしも、教育効果を考慮するなら、高校生のバイトを禁止するなりして、学業に専念させ、「落第」=「退学処分」というルールがあっていい。
それが公金をもらうことの意味と意義で、これまでと同じでただ「もらう」だけ、では物乞いと同じである。
ポーランドの大学は、全校が「国立」で、私学はなく、そのかわりに授業料は無料でかつ、上述した「落第=退学」のルールがあるばかりか、大学入学資格試験に合格すれば、どの大学にも入学できるので、「偏差値」という概念がないから学生は近所の学校に通って、「大卒」資格さえ得れば立派なエリートとして社会に受け入れられることになっている。
なお、教育の無償化は『共産党宣言』にある、国家に都合のよい育成をする極左政策だ。
さてふつう、「経済成長」というものは、なんであれ「持続的」であってほしいものだが、自由経済には「好景気」と「不況」が交互にやってきて、じつは社会からムダを省く効果を「不景気」のときに行うことで「持続性」を達成している。
省かれる側の企業や、そこに従事した個人には気の毒だが、こうした「淘汰」が、全体最適を生むのに必要な痛みなのである。
そのために、企業経営者には、社会からの淘汰の対象とならないような「ちゃんとした経営」が求められる当然があった。
その基本が、「損か得かの見きわめ」であった。
けれども、政府を運営する者たちが、特定の思想やらに落ち込んで、とあるバラマキ政策とそこからのキックバックを平然と求めるようになると、対象となる法人やらの経営は、たちまち邪悪化して、淘汰もされないために、社会の「お荷物」に成り果てる。
ここにおける「損か得か」は、直接の事業からの判断ではなくて、社会的意義という別物が登場し、補助金をキッチリもらえるか?が最優先されるようになる。
こうした、自由経済体制での構造的な不正がはびこると、社会コストの増大は極限化して、とうとう国民負担が増えるという結果になるが、選挙における結果だと開き直られると、どうにもならなくなるのが「民主主義」というものである。
ときに、政府が支出することで、経済成長するというのは、ケインズが言い出した。
彼は、「不況時に限って」なんでもいいから公共事業をやることで、労働者に仕事を与え、彼らが得た報酬を消費に回せば景気はよくなる、と説いた。
これを、政府の側は都合よく、「不況時に限って」を切り捨てて、「いつでも」に書き換えたので、なんでもかんでも公共事業をやることにしたのである。
それが「土建屋」の時代、「(官製)談合」が糾弾されたので、「NPO法人」やら「NGO」を介する、人権事業という公共事業にシフトして、腐敗度合いが上がったのである。
しかし、これにはもうひとつの落とし穴があって、それが「経済統計」なのである。
目先の公共事業というバラマキで、一瞬の雇用を確保しても、その維持のためのコストが継続的な負担になると、将来の統計ではマイナス効果となる。
これを隠すために、一瞬の効果を積み上げ(=肥大化)てきたのが、アメリカでありわが国の現状なのである。
これは、麻薬中毒患者の末路に例えることができる。
自民党からしたら、敗戦後80年にわたってやってきたこの中毒政策をすぐにやめるわけにはいかないのはよくわかる。
ここに、悪い意味の「継続性」があって、ふつうこれを「しがらみ」という。
あるいは、自民党にはこれ以外の効率的に自分たちのカネになる方法をかんがえつく能力がない、ともいえる。
なので、国民はこれを「無能」というのである。
さて問題は、政府の赤字とは、円貨の発行増大を意味するから、インフレとなる。
インフレの定義は、通貨価値の減少のこと、であるから、結果的に物価が上昇するのは、モノの価値が変わらなくとも、通貨価値が下がることで値段が上がるのである。
ここで上葉なのは「順番」で、物価が上がるからインフレなのだ、というのは、そうなるまでの順番を無視した表現であることだ。
また、これとは別のメカニズムのインフレがあるのは、モノの供給が減って、欲しい人の数が変わらないか増えたときに起きる、コストプッシュ型がある。
「自・公・立憲・維新」政権は、さかんに増税を仕掛けてくるが、もっと問題なのは、インフレ対策がないばかりか、コストプッシュ型のインフレを作り出す政策を熱心に進めていることである。
これにまた、日銀が加担している。
つまり、伝統的な財政赤字=通貨の過剰発行によるインフレをそのままにして、増税とコストプッシュ型インフレという、三重苦を国民に押しつけているのが、「自・公・立憲・維新」政権なのである。
そんなわけで、この政権をはやく除去しないといけないのだが、受け皿を育てていない国民側の失敗が痛いのである。
それが、16日、県単位でいう千葉県知事選挙の「選択肢のなさ」になって、典型的な県民負担増路線を県民が選んだという形に押し込められたのである。
わが国で民主主義は機能しなくなったから、経済成長に役立たない経済政策としての「公共事業」は続く。