教育委員会は持ちこたえるのか?

GHQが構築した、「戦後レジーム」のなかでも、日本人劣化目標にひときわ効果を挙げているのが教育委員会という、役人たちによる役所のDS化である。

この組織は、設立当初には市民から選ばれた委員たちが互選によって「委員長」を決めたいたが、その後の「形骸化」によって、委員長を設置せず、事務局長だった役人が「教育長」として君臨することになったのである。

しかも、政治家からの政治的な介入を教育にさせないための「防止策」として、選挙で選ばれる「首長」からの独立が与えられている。
かんたんにいえば、文部科学省の出先機関になったのである。
この構造は、厚生労働省の「保健所」と似ている。

国家運営には、「三権分立」があるが、地方自治体運営には、「二元制」として、行政の責任者たる首長を選挙で選び、なお、首長(行政)への牽制・チェック機能として「議会」の議員も選挙で選ぶことでの「緊張感ある状態」を制度設計上のポイントに置いたのだが、教育委員会は、その独立性を強化して独自の世界を作り出している、危険な組織になっている。

その危険度とは、
・文部科学行政=文部科学大臣の存在と、文部科学官僚の支配が全国に及ぶこと
・日常の組織運営には、教育長のパーソナリティに依存すること
である。

なお、地方議会は、国会とちがって、その職員の身分が一般行政職と区分されていないので、議会事務局も役所(行政=首長)の役人に牛耳られるという「乗っ取り」の可能性を多分に占めている。

ちなみに、国会の職員は、「特別職国家公務員」の扱いなのだ。

これが、「本国」アメリカ合衆国では、完全に分離していて、国会職員と行政府の職員は別物扱いになる「当然」があるが、「属領」のわが国では、「出向」という不明瞭な公務員人事制度によって、行政府⇔国会⇔裁判所、が三角形の形態でそれぞれで「人事交流」している。

ようは、三権の権力機構がそれぞれ「なぁなぁ」な状態にあるのがわが国のグダグダとなっているばかりか、「内閣人事局」が権限を行使して、「独裁」体制を完成させている。
「気骨ある官僚」が絶滅したのは、本来の行政職のあるべき姿ではないが、「完全イエスマン体制」になったのはこのためだ。

15日、和歌山県の「県立紀伊風土記の丘」という博物館で、漏電事故があり周辺の50世帯あまりが停電したというニュースがあった。

2023年12月の法定点検で動作不良による今回の事態を予測する指摘がされていたにもかかわらず、「担当職員の判断」で予算請求せずにいたという。
27年には新施設の建設があることから、ガマンして他の修繕を優先させていたと報道にはある。

しかし、この事故から、この担当者が「文書訓告」の処分を受けたというものだ。

わたしは和歌山県には過去一回だけしか行ったことがないので、「コタツ記事」となるけれど、なかなかに「シビれる」組織であることがわかる。

民間でも起きそうな話だが、ここで重要なのに記事にないのは、「減価償却」の概念が、いまだに教育委員会=役所にないことが指摘できる。
もっといえば、資産管理のための「帳簿(複式簿記)」もないのだろうと予想できるのである。

一般に、減価償却=積立金として、大きな設備更新の原資に充てるのは、「発生主義」の組織体であれば常識だが、原始的な「現金主義」だと、民間なら「節税」だけで認識されて積み立てしての「更新準備金」にするという発想がないのが古い旅館などでみられるものだ。

こうした設備投資の管理欠如という構造問題を、担当者の責任としたことが、「事件」なのであり、それが教育委員会だからなおさらなのだ。

法定点検における不備の指摘についての「組織」での受けとめ体制として、せめて経理担当からの牽制はなかったのか?あるいは、設備投資予算の管理をする組織における管理不在が、トップの責任になってしかるべきなのである。

こんな軽い個人責任だけの処分で済んだのも、電力会社からや、被害があった住民たちからの「損害賠償請求訴訟」もないことの平穏があってこそである。
「心ある」のならば、訴訟を起こしてちゃんと組織としての責任を追及すべきではある。

さて、同日、教育委員会の本質的な問題提起があったのは、杉並区である。

同区議会議員が、「大阪関西万博」への区立中学校修学旅行が追加された経緯について情報公開請求をしたところ、「特定した情報の公開・非公開の判断等に相当の期間を要するため」という意味不明な理由で、区条例に定める期間内ではなく、延長する旨の「通知書」が、11日付けで請求区議へ出ていたという話題がある。

自分で判断しておいて、その経緯説明を公開できない理由はなにか?という疑問がわく話であるが、いざ公開となった場合に、いつもの「のり弁」状態での誤魔化しになるのではないかと想像できる。

しかし、区議とは選挙で選ばれた者だし、この請求は二元制における直球の議員の業務である。

つまり、教育委員会は、区の条例さえも超越するのだといっているようなもので、立ち位置として「首長=区長」も他人事として装えるから厄介なのである。

そもそも「情報公開」が定められているのは、何のためか?をかんがえると、まことに不味い独裁が教育委員会の名の下に実施されている。

それでも教育委員会が足元から崩壊しないのは、構造的に文部科学省が存在するからである。

行政論として、どこまで役所は業務をやめることができるのか?というシミュレーションをやらないといけない時期になった。

その実験を、本国のアメリカでやっている。

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