新しい病気?「スマホ認知症」

4月29日に、地上波で放送されて話題となったのが、「スマホ認知症」という病である。

これを紹介した記事では、なんでも、「脳に情報のゴミが溜まる」ことで、情報処理ができずに認知症を発症するというから「怖い」病気である。
道ゆく一般人に端末の稼働をみせてもらうと、なんと1日あたり7時間とかの断続的でも累積した稼働時間数になるという。

へぇー。

とにかくスマホよりも悪質な情報源は、地上波だと一般にも認知されはじめているから、一種の自虐的な番組制作者の意味不明な雄叫びなのかもしれない。
だから、これはこれで気の毒な話だが、相変わらずこんなものを観て震える視聴者がどれほどいるのかはしらない。

それで、きっと手元にあるスマホで「スマホ認知症」と検索して、出てきた記事に納得させようとするお笑い草にしたいのか?
ようは、こないだのパンデミックと同じパターンだということに気がつかないといけないのである。

だが、一概に一蹴もできないのは、電車における光景で、いまや紙の本をみているひとを探しても、ほとんどいない有様なのである。
一様に、スマホ画面を眺めている人たちばかりだ。

この中に、どのくらいの比率で電子書籍を読んでいるのか?は一見したところではしりようがない。
なんにせよ、出版不況はもはや「常態」であるので、電子書籍だって売れていることは稀だろう。

ちなみに、わたしはipadでPDF化した書籍を読んでいる。
スマホの画面では小さくて、もう長時間の読書に耐えられないからだ。
めったに使わなくなった「通話」機能が、ipadにあれば、スマホがいらない。
アップル社純正の「FaceTime」アプリは、アップル製品同士という限定なので使えないし、わたしは危険な「LINE」をつかう気はない。

もう、日本人は隙間時間の読書で自己研鑽することもしない堕落の日常になったのだろうか?

だが、こうした現象は、「成績不良者」には大チャンスなのだ。

つまり、ちょっとした読書の習慣を身につけるだけで、数年もしないで知識量レベルにおける同年代のトップランナーになれる可能性がある、ということになるからである。

しかし、たとえば硬直した企業組織では、そういった「後から努力して頭角を現す者」を拒否するという人事を平気でおこなう。
先行する「安全地帯」に踏みとどまるには、「定員オーバー」を許さないからである。

役所の場合は、採用試験結果で決まるのは、かつての軍事官僚とおなじ身分制だからである。

戦後の日本を撮影した、マーク・ゲイン『ニッポン日記』には、路面電車の停留所=安全地帯にギッシリと詰まっていて、だれひとりはみ出さずにいる日本人の光景が、妙に詩的な風情を出しているのが印象的だ。

壁のない空間で、満員電車の状態が現出している。

わたしは、この写真とそっくりおなじ光景をなんども目撃したひとりである。
わが家の近所にあった、横浜市電の折り返しでは、よくみるものだったのである。

そういえば、大学の先輩が上野と赤羽駅の間にある鉄道沿線のアパートにいたころ、よく徹夜麻雀につき合ったものだったが、じゃんじゃん通る鉄道の喧騒が次第に気にならなくのを経験した。

人間の聴覚は、雑音でも無感覚にするのか?といえばそうではなく、脳が雑音を消去する活動をするのである。
すると、これが「スマホ認知症」でいう、症状のひとつともいえるが、いがいとありがたい機能なのである。

認知できないことが便利という皮肉は、スマホの場合どうなるのか?

逆に、「スマホ依存症」の問題と混じっていないかとおもうのは、上に挙げた7時間もの稼働がふつうなら、起きている時間の半分がスマホを観ている時間となって、生産的なことが妨げられているとかんがえられるからである。

すると、需要者よりも供給者の方に圧倒的な生産性が上がる。

ならば、供給者は需要者がどんな需要を強くいだいているのかをしるひつようがあって、それがまたアクセスの内容解析という仕事を呼ぶ。
広い意味でのマーケティングそのものである。

だが、狭い意味では従来の勉強エリートでは実務についていけないから、ここにひとつの「穴」があるのである。

コンピュータは「電子計算機」のことをいうが、むかしの「スーパーコンピュータ」以上の処理能力があるスマホで計算しているひとをみないのはこれまたどういうわけか?
つまるところ、アプリがない、につきるのである。

じつは、この状態を「スマホ認知症」というのではないか?

だがそんなスマホの能力をぜんぜん活用できないで、娯楽ゲーム機として、あるいは、映像端末として映画コンテンツを観るだけなら、さらに、ポケベルでできたメッセージのやりとりだけに使うなら、スマホが認知症になっているのである。

すでに一部の機種は、新品で20万円をこえるが、「関税」で50万円になるかもという噂話がでている。
その寿命は、OS更新の保証期間とイコールなので長くて6年である。

いまどき、そんな高価なテレビはないから、いかにテレビが廃れたかがわかるが、超高価な端末がテレビになっているともいえる。
それで、NHKがスマホ課金をすると息まいているのだろうが、ますますユーザーはNHKから遠ざかることになるのである。

生まれながらにテレビがあった世代から、スマホがある世代になって、10歳~80歳まで一生の間、ユーザーとして利用をやめないならば、およそ11から12台の機種変更(使い捨て)を余儀なくされる。

端末代がいまのまま一定として、生涯で200万円以上の購入を強いられるのだ。
これに、通信料が別途かかる。

おぞましい出費の強制に無頓着なことが、もう「スマホ認知症」なのである。

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