日本の中高生がつくるブラウザを使う

Floorp:フループ』のことである。

これは、完全にオープンソースのブラウザ、『Firefox』をベースに作られている、純日本製(中高生でつくる『Ablaze』というコミュニティによる、やはりオープンソース)のブラウザだ。

オープンソースというのは、ソースコードが公開されている、という意味だから、悪意があろうがなかろうが、ヘンな悪さをするコードを書き加えてもだれかに発見されて直されてしまうから、安全だという意味もある。

わたしはこれまで、「Chrome」か、「Edge」をつかっていたが、移行にあたっては自動的に設定もコピーされるので、ぜんぜん遣い勝手にかわりなく利用できる。

「日本製」といえば、世界で利用されている「OS」で、じつは圧倒的なシェアを誇るのが「TRON」だ。
これは、「IoT」に欠かせないから、生活のなかに驚くほど普及している。

発明者の坂村健氏は、慶応ボーイから東大の教員になった。
そのTRONも、著作権フリーにしての「オープンソース」で自己発展させたのである。

今どきの若者は、と若い世代を嘆いてぼやくのは高齢者になった典型で、はるか以前からおなじことがいわれ続けてきたのも、「人類史」なのである。

しかしながら、よくよくかんがえると、生まれてから20年あまりで成人することをおもえば、先に生まれた世代による教育でしか跡から生まれたひとの育成はできないので、若者を嘆くのは、自分の人生の無責任を嘆くのとおなじことになると意識しないといけない。

それがまた企業などの組織でよくいう、人材不足の原因となっていて、ひとが育たない、のではなくて、育てていないから起きる、たんなる結果論である。

1980年から95年ぐらいまでの生まれを、「y世代」という。
「y」の意味は、「ゆとり教育」のローマ字頭文字である。

次の「Z世代」(1996年から2012年に生まれたひとたち)こそが、『Ablaze』のメンバーだ。

ついでに、「y世代の前」が、「X世代」で、「Z世代」の次が、「α世代」だという。
これらは、アメリカのマッキンゼーがいっていることだから、あまり信用はできないが、ひとつの指標として便利ないい訳ができるから普及しているのだろう。

当然だが、あたらしい世代ほど、世界経済フォーラムがいう、邪悪な思想、たとえば、SDGsとか、LGBTQとかの洗脳がすすんでいる。
これは、国家が独占する学校教育が、世界経済フォーラムの傘下にあることからの必然でもある。

ゆえに、家庭教育が重要なのだが、もう家庭がその機能性を失った。

性能がポンコツになった家庭を超越するのが、こうした『Ablaze』のような集団組織のなかで、自主的に育つことになったのである。

これは、ハンナ・アーレントがその主著、『全体主義の起源』で述べた現象と似ている。
個人としてバラバラの頼るところがないアトム化された人間は、誰かを頼って集団の一員になることを望む。

その集団が、望みどおりの目的があればいいけれど、目的自体が歪んでいたら、たちまちのうちに個人が「個」を失って「全体主義」の虜にされてしまうことだってあるのだ。

バカではないナチスの組織化担当者たちは、こうしたアトム化された個人を狙ったのだった。

すると、社会にある様々な団体がどんな素性なのか?をしることばかりか、その素性の適格性を見抜く力が個人に要求されるという、困難な時代になったのである。
途中で退会が簡単にできないような仕組みが用意されていると、個人が勝手に抜けることも困難になる。

これには、たいがい金銭的な縛りよりも、精神的・人間関係的な「情」による縛りの方がより強固で困難なのである。

さても、そうした組織が、バーチャル空間での存在だけともなれば、より一層、選択の難易度は高い。

一般に、「Z世代は優秀だ」という評価は、「ゆとり」の被害者たる「y世代」には気の毒な比較対照にされている。

そうやってかんがえると、「X世代」以前と、「y世代」との境界線である、70年代までが、いわば古き良き時代となるのだが、その後の責任という意味では、70年代までの意志決定が重かったともいえる。

いわゆる責任者としての「爺いたち」とは、政治でも企業でも、だいたい70歳代が実力者として君臨するのがわが国「年功序列」の特徴だ。
すると、1900年(明治33年)生まれ前後のひとたちが、もっとも現代(2000年代)の状況に無責任だったともいえる。

この世代で、人材が途絶えて枯渇するからだ。

前に書いた映画、『1900年』は、イタリア(ポー川流域の農村地帯)を舞台とするから、日本人には馴染みが薄いものの、主人公たちが1900年生まれという「偶然」は、おそらく現代をしるための「意図的」な設定のである。

そんなわけで、『Ablaze』の代表者はいま高校三年生で、名古屋大学を志望していると表明している。

志望がどこであれ「大学」だということに、ガッカリ感があるのは、社会に出てからのことを「志望」してほしいからだが、目先の大学を観ているのが子供らしいといえば子供らしい。

これも、周辺のおとなが、子供ままの発想でぜんぜん社会学習をしていないことの裏返しなのだろう。

となると、やっぱりこの優れたブラウザが、中高生によるものだとの確信になったのである。

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