日本伝統文化の『煩悩☆西遊記』

芥川龍之介全集378作品を読破しようと「Kindle版:200円」で試みたら、作品執筆順ではなくて、タイトルの50音順で整理されていた、と書いた。
そこで、はじめに登場する『愛読書の印象』に、芥川龍之介が幼少時に『西遊記』にはまったことが書いてある。

これで、『西遊記』を検索するひとたちが、アルゴリズムの網にかかって、『煩悩☆西遊記』に誘導されることになっているから、なんだか「金角・銀角」の回で登場する、吸い込まれて溶かされる「紅ひょうたん」の話のごとくなのだ。

見た目は、エロいパロディかと思いきや、あんがいと奥深いのである。

作者は、クリスタルな洋介。
2020年3月号から、『月刊サンデージェネックス』に連載
されていて、単行本では全12巻の予定だったが、2026年1月に最終第13巻の「発行予定」となっている。

本作の特徴に、岩波文庫版『西遊記』(全10巻)準拠がある。

だが、設定は、孫悟空、猪八戒、沙悟浄といった面々が全員「女子」で、三蔵法師が彼女たちから各々登場する妖怪やら何やらがこれまた全員「女子」であることの「煩悩」にさいなまれるという、実に「仏教」的な物語に仕上がっているのである。

むろん、『西遊記』は、世界最古の小説『源氏物語』(1021年ごろ)に次ぐ、とはいえ500年以上後の1590年ごろにできたという物語集(全100話)である。

表面の主人公たる僧玄奘が仏教の経典を求めて天竺に向かう史実では17年に及んだ旅の真実のために、あたかも仏教を民衆に説くかとおもえばさにあらず。

道教から儒教に至る様々な「教え」から「風習」を、真の主人公たる叛逆のヒーロー、孫悟空が粉砕しまくるという破天荒な物語なのである。

つまり、取りようによっては、無神論的なのだ。

しかも、敵として登場するのは、ほとんどが「妖怪」である。
これが日本的妖怪でないのは、その原作の描くおぞましさにある。
じつは、日本人は、得体の知れぬ妖怪を、「キャラ化」してしまう民族なのだ。

その成功例が、『ゲゲゲの鬼太郎』である。

鬼太郎も妖怪であるのに、ここには「いい妖怪」と「そうでない妖怪」が登場し、鬼太郎によって「いい妖怪」に変質させられる特徴をもっている。

「いい」とは、人間の都合に「いい」という意味の、「人間中心主義」=「神々は人間のためにある」という、中東・西洋世界の「(全知全能にして絶対の)神」とは、真逆の概念があるのだ。

日本人の祈りは、ほとんど普遍性などなく、単純に家族や自分の幸福を神に要請し、それに強力に応えた神=神社が、「効く」として参拝者が増える構造になっている。

この点で、靖国神社は、日本人の祈りとは別の位置づけになっているために、純粋に国内問題としての議論が絶えないのであろう。
一方で、戦国時代の形態である『ビルマの竪琴』での鎮魂も、地中海マルタ島の「旧日本海軍戦没者墓地」も、顧みられることがない。

平安期、最澄が京の鬼門に建てた「延暦寺」を「鎮護国家道場」としたことが、いかに意外で画期的であったことか?
だが、それも貴族の「効く」に迎合するための「祈り」へと変質し、腐敗したのである。

なので、ニーチェがいう「神は死んだ」からはじまる、「ヒューマニズム」とは、これまた一切の断絶があるわが国で、最大規模の新興宗教団体が支える政党(こないだまでの与党)が掲げたスローガンが「ヒューマニズムの政治」だったこととは、まさに日本文化の側にある概念で、西洋の「ヒューマニズム」と同列でかんがえては理解不能なのである。

ここに、西洋からの輸入で発展のない共産党と、本当は同質なくせしていながらも犬猿の仲の理由の一つがある。
つまり、西洋的共産主義とは相容れない日本的共産主義を掲げているのが、公明党なのである。

この意味で、コミックでも中村光の『聖☆おにいさん』の深さと完成度とは比較してもはじまらないのは、原典があくまでも『西遊記』なるファンタジーだからである。

しかし、エロとキャラを(葬式)仏教(あるいは親鸞以来の妻帯)に融合させるというアイデアの妙は、日本的な文化解釈として、ひとつの傑作であるのはまちがいないのである。

孫悟空=中国人を代表するキャラの日本化として、豚の姿にされて自分を「汚い」と言わしめる猪八戒(元の名は悟能)=イスラム思想のキャラ、沙悟浄の記憶喪失による虚無(ニヒリズム)はニューチェの批判するヨーロッパのキャラとした設定は、「世界的」でじつに奥深い。

なお、これら妖怪の全員の名前に「悟」の字がつくのは偶然ではない。

そこで、もうひとりの主人公だが、仏僧にとっての「煩悩」なので、本作では孫悟空よりも重要人物となっているのが、三蔵法師=玄奘である。
仏の道のストイックさを描けば描くほど、「道教」や「儒教」の柔軟性を目立たせるのは、原作もそうしたパロディーだからであろう。

ただし、わが国の場合、「僧侶の妻帯」なる「破戒」は、「肉食・蓄髪」と同時に、明治5年の「太政官府布告第133号」によるから、あくまでも「政府の許可」という国家の介入が拠り所であるという問題がある。

この点で、わが国の仏教は、仏陀が説いた「仏教」ではない。

それでか、釈迦如来の解釈が『煩悩☆西遊記』ではぶっ飛んでいる。
これもまた、キャラ化の日本文化なのだ、ととらえれば、太政官府布告を語りもしなくなった日本仏教への嫌味か?

最終巻のオチは、どんなエピソードなのか?楽しみなのである。


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