日本政府の集団処罰の論理

集団を処罰するということを論理として成立させているのは、ユダヤ教(『旧約聖書』)にある、神に従わないイスラエルの民を神が滅ぼすことによって絶対化されている論理である。

ユダヤ教の神の激烈さは、「唯一絶対神、創造主、全知全能」ということの、本気の理解を要することにある。

これを、キリスト教とイスラム教がまたそれぞれの論理で引き継いでいる。

実は、宗教とは論理的でかつ哲学の要素を多分に内包しており、これらがしっかりとあってこその「世界宗教」になり得る要素となっている。
もちろん、神秘性も欠くことはないが。

日本人は、縄文からいままで、何世代もずっと日本列島に住んでいることに疑問を持つことがない。
このことは、案外と世界宗教的に珍しいのだが、それもまず意識することなく生活してきた。

外国人の目線からすると、ユダヤ人と同じで日本人は神からの約束の地に歴代、絶えること無く住んでいるのだ、と言われたら「はてな?」と思うかもしれない。
しかし、ちゃんと「古事記」や「日本書紀」に天照大神の「天孫降臨」としての神話「神勅」が残っている。

なんと、古代ユダヤ人たちがあらゆる艱難と神との契約を経て、ついにカナンの地にたどり着いたのとはぜんぜん違って、最初から日本列島にいる、ことになっている。

これは、完全なる「予定説」であって、「因果律」ではない、と解説したのは、小室直樹『天皇の原理』(1993年)だった。

聖書は神の予定=決定に基づく論理で一貫して記載されている。

しかし、天孫たる天皇は、古代までの「神勅=絶対的=予定説」が、承久の乱(1221年:承久 3年)で「因果律」へと変換されて、明治になって再び「現人神=予定説」へと復活をとげ、昭和の敗戦で再度「因果律」とされていまに至っている。

さて、ユダヤ教とここから生まれたキリスト教徒の決定的なちがいは、救済の対象が「集団」か「個人」かで分離することにある。
ユダヤ教は集団を、キリスト教は個人(しかも「内面」)を対象とする。
そして、ユダヤ教のばあいは、神が集団を処罰するのである。

平安時代の日本人は、「末法思想」にはまりこんでいた。
末法とは、仏教における「逆神化論」で、釈迦入滅後から世の中の人間はどんどん悪くなって、「仏法が滅亡する」ために、救済のための修行をする者すらも絶える時代をさす。

鎌倉仏教とは、この「末法の時代」における、あたらしい「救済」の提案であった。

それが、法然の「浄土宗」だし、親鸞の「一向宗:浄土真宗」あるいは、激烈な日蓮で、まったくもって、彼らの論理は、「パウロ」のそれ、つまり、救済は神(阿弥陀如来)の「念仏」か「法華経」を唱えれば向こうの方からやって来る、というキリスト教徒が驚愕する結論に至ったのである。

そんなわけで、フランス政府の宗教研究所は、浄土宗系の「仏教」を、仏教ではないと定義している。
仏教の本質は、修行による自己の救済にあるから、修行を否定することはあり得ないのだ。

つまるところ、わが国は、「末法の世」になって、1000年余りが経過した。

だが驚くにあたらないのは、釈迦の「次期仏」となるべく、弥勒菩薩がとっくに修行中で、56億7千万年後に世に下降するとの「予言」が仏典にあるからだ。

あと、56億6千999万9千年後にあらたな「正法の世」が来ることになっている。

しかして、わが国の仏教は仏教でもなくなったために、「法の不在」という事態となってとっくに1000年が経過したともいえるのである。

これを、川島武宣博士は、『日本人の法意識』(岩波新書、1967年)で、「明治政府は、ドイツとフランスの法典を模倣して、六つの基礎的法典を作った」けれども、「不平等条約を撤廃するという政治的な目的のために、これらの法典を日本の飾りにするという一面があったことは否定できない」と書いている。

つまり、「六法全書」とは、「鹿鳴館」での連夜の舞踏会とおなじことだった。

そんなわけで、日本人に、基本的な「リーガルマインド」がないのは、根に末法どころか仏教の放棄というすでにして1000年の伝統があるからなのである。

そこで、「末法の世」がさらに逆進化している現在、日本政府が日本国民を集団処罰するという段階に踏み込んだ。

もはや「民主主義」なる方便すら通用しない。

天皇に替わって「神」となった日本政府は、神への冒涜を許さないイスラエルの神とおなじく、政府への冒涜を許さない「集団処罰」をするまでになったのである。

わが国の政府は、古代イスラエルへと遷移した。

似た論理は、英国のスターマー政権である。
この政権も、古代イスラエル化を果たしたが、一方で、イスラム教をおおいに容認している。
しかし、イスラム教は「個人救済」の宗教ゆえに、「集団処罰」とは相容れない。
これが、英国国教会との絡みもあっての、大混乱の元なのである。

つまり、英国は、三大宗教の「るつぼ」に自らすすんでなるという「破滅」となったのである。

では、わが国はどうなるのか?

古来、わが国に取り入れられてきたのは、仏教以外では、儒教とキリスト教(ネストリウス派「景教」)で、イスラム教はない。
しかし、「神勅」の天皇が存在しているのである。

ちなみに、儒教も、救済の対象は個人ではなく集団であり、その方法が「よき政治」なのである。
儒教国家のはずの中国・韓国、ましてや「小中華」を自慢する韓国の政治混乱とは、一体何か?

さて天皇は、幕末・明治に国内では「現人神」への復活を遂げ、敗戦でまた影響力を削がれたが、英国陸軍元帥という序列(「ガーター勲章」が5代連続)に押し込められて150年となる。

わが国の正常化には、仏教の「正法の時代」を待つよりもなによりも「国学」の復活が最重要なのである。

実生活ではまったく「ひとでなし」だった島崎藤村の実父の生涯を赤裸々に描いた、『夜明け前』で、その青山半蔵は平田篤胤の国学に傾倒し、開国とともについに発狂して座敷牢のひととなる。
この悲劇は、まったく現代的なのである。

平田篤胤の国学が何だったのか?やら、水戸学、崎門の学を予備知識に持たないと、この小説の意味が理解できない。
逆に、「当時」の日本人の武士たちはこれらの「学」に精通していたので、現代はまったく退化したといえる。

それが、廃頽の大衆社会=末法の世、なのである。

姪との不適切な事態からフランスに逃げてヨーロッパ文明に冒された藤村は、あたかも暗い日本を「夜明け前」としたが、ほんとうはずっと長い末法の「真っ暗闇の中」のことであった。
混沌の『羅生門』が、いかに現代的であるかを観ればよい。

じつは、日本は、まだ夜は明けていない。

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