早春の神田明神で雅楽を聴く

2月26日、天気の良さにたまたま訪問した神田明神では、25日から3日間の「伊勢の神宮写真展」が開催されていて、会場では國學院大學の青葉雅楽会による演奏も楽しめた。

この写真展は、神道青年全国協議会 神宮式年遷宮の〝こころ〟を守り伝へる委員会の主催とあった。
どうやら、令和15年の第63回式年遷宮の準備がはじまっていることのアッピールが主目的のようである。

外国人観光客もチラホラ混じる会場で、雅楽の演奏を生で聴いた。
ずいぶん前に皇居・宮内庁学部の演奏会に誘われたことがあったが、これは残念ながら行けず、自分の結婚式で体験することになった。

26日は、たまたまの入場だったので、最後の2曲ばかりを聴いた。

こころの中で、これは1000年~2000年前の音色だとおもって聴き入った。
そういえば、2年前に奈良印傳について書いたが、飛鳥時代には完成されていたデザインの極彩色と雅楽の音色がなんだか重なるような感覚がした。

奈良県知事による奈良公園でのK-POP無料コンサートが、これまでやっていた平城宮跡で『天平祭』の中止と交換に実施されることが話題になったが、『天平祭』がはたして時代絵巻としていかほどの価値があったのか?関東人のわたしにはよくわからない。

とかく平安時代が意識されて、古すぎる奈良や、数々の遷都があった地の歴史的保存がなされていないことも、「明治は遠くなりにけり」どころの話ではない。

帰宅して、いつものようにYouTubeを開いてみたら、どういうわけか雅楽の解説がでてきて驚いた。
スマホの行動履歴から神田明神のイベントが検知されて、このような動画までもが自動的に現れるのだろうと思うと気色悪いが、確かにこれまで雅楽の詳しい説明を聞いたことがない。

解説者は、ドラマの話題作、『SHOGUN 将軍』の音楽を担当した石田多朗氏である。

まだ耳に残る生演奏と、石田氏のわかりやすい解説が重なったなか、その音色の時を超えた感覚について触れたときに、自分と同じ感覚かとちょっとドキッとしたのである。

それにしても、西洋音楽のはじまりを「グレゴリオ聖歌」としても、さらに古いのが雅楽だし、このほとんど西洋的ではない音色が、もっといえば、西洋的なものを拒絶する音色とはなんなのか?

もちろん、中華的なものでもない。

このことを目でみた感覚として言葉にしたら、「あをによし」となるのだろう。
ところが、万葉集の「青丹よし 奈良の都は咲く花の 匂(にほ)ふがごとく 今盛りなり」ができて臭覚も連結したのである。

こうして、五感をもって統合した複雑性を一瞬で感じることができる「感性」の一部が、音楽としての雅楽だというのは、まことに「肉食の思想」ではあり得ない、日本的な独特なのだろうと納得した。

すると、『水戸黄門』の身分を明かすときの音楽が雅楽風(『水戸黄門』サントラ盤によると曲名は「印籠」)なのは、本来的な用法ではなくて、むしろ「肉食の思想」的な効果音でしかないことが、やっぱり雅楽の本来を忘れさせるための日本人洗脳作戦として罪深い意図になっていることがわかる。

あたかも、DNA研究による日本人=縄文人の起源が古すぎてわからないのとおなじくにして、民族の音、としても聴けるのだが、明治以来、西洋音楽に慣れ親しんだせいでかなりの違和感を持って聴くことになるのは、むしろ、クラッシック界でいう「現代音楽」のごとくなのである。

しかし、「無調」に行き着いて(突き当たって)、なんだかわからなくなった現代音楽とはちがって、まったくことなる次元での調和が雅楽にはある。

これが、自然の音、だと石田多朗氏は強調する。

すると、自然とはなにか?ということになって、また、西洋人が感じる自然と、日本人が感じる自然のちがいという問題に戻るのである。

ときにYouTubeでは、昨今のヨーロッパで神社神道が流行っているという動画を散見する。

このところのEUにおける顕著な全体主義化は、キリスト教への絶望的な不信から、無神論=共産主義へと傾倒したことの結論にもみえる。
26日、トランプ政権2.0の初閣議が、「祈り」から始まったことは、現代ヨーロッパとの断絶を見せつける象徴なのである。

おなじく、わが国でも、コロナ禍における既存宗教の壊滅的な無力=祈りすらしないことが、科学万能主義における宗教=信仰の行き詰まりにもなった。
寺院の本堂での法事ですら、マスク着用を義務づけられたのは、一体何を意味したのか?を改めて問うことになったのである。

つまるところ、エセ科学とエセ宗教とが結合したようになって、とある教団が非難の的になったけれども、それがまた意味するものとは、タブーのはずの「政教一致」=「政治と宗教の癒着」が、とうとうヨーロッパと似た「共産化」になったのである。

マルクス主義は、ユダヤ教とおなじ構造になっている、「新興宗教」である。

すると、祈ることの価値が復活するのか?どうなのか?という分岐点にあって、あくまでも「唯一神」をイメージするのか、それとも「あらゆる事物=唯物」を対象とするのか?というちがいに行き着いたのである。

あくまでも「唯一神」に回帰したのがトランプ政権2.0のアメリカで、ヨーロッパと日本は「唯物」に走った。

しかし、本来、まったく価値観のことなる日本における自然崇拝の威力が湧き起こるのかどうなのか?が、じつは日本復活の決定的な要素だということなのである。

とうとうインドにもGDPで抜かれたいま、ずっと重みが増している。

その祈りの調和こそが、雅楽による表現なのだ、とおもえば、なかなかに味わい深いことなのであるけれど、まさか神社神道においてさえ、気がついたヨーロッパに追い越されることはあるまいな?と不安になるほど傷んでしまっているのが日本だということになっている。

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