「駅前」シリーズの発端は、井伏鱒二の小説から製作された『駅前旅館』(1958年)のヒットであったという。
それでも、2作目からは、原作小説はなく、「喜劇」が頭についてシリーズ化(全24作)された。
その2作目が、『喜劇駅前団地』(1961年)である。
舞台は、小田急線の百合ヶ丘あたりで、現代との比較をしているサイトがあった。
ロケ地の映像が、そのまま「記録映画」としての価値を持っているところが、このシリーズの現代的な貴重性なのであるし、むかしの映画を観る楽しみのひとつである。
しかし、景色だけが貴重なのではない。
人間の生活風俗やらもそのまま「記録」されているのは、観客自体が「同時代人」なので、無視はできないし、現実そのままであることで感情移入も可能となるからだ。
しかして、まず、タイトルにある「団地」とはなにか?を問うと、地縁も血縁もないまったく異なる別々のひとたちが移り住んでくる、現地の歴史からすると「想像もできない大変化」をもたらすものであって、そのコンクリートの塊群が一種の意思をもったかのような、まったくちがう文化をももたらす、よくよくかんがえれば怖ろしい存在である。
視点はことなるが、カフカ最後の傑作『城』と似たイメージを感じる。
そのまったくちがう文化とは、「近現代」そのものの合理的あるいは機械的な価値観であって、旧来のその土地土地の価値観を押しつぶすのである。
ようは、無機質な平準化、だ。
それで、むかしは「日活ロマンポルノ」で人気シリーズになったのが、「団地妻」(1971年、ロマンポルノ第一作)であったことの社会的合理性が理解できる。
また、現実に団地妻たちに覚醒剤が蔓延したことの事件性の根に、上の無機質な価値観との関係があるのは容易に想像できることなのである。
江戸が開闢して以来、地縁も血縁もないひとたちが江戸・東京に移り住んできたので、まさに、団地とは江戸であり東京の縮図であったから、それがまた近代化の象徴になり得たのである。
よって、現地人の「前近代人=地元民」との軋轢や葛藤がはじまるのは当然である。
そこに、本作では江戸期から続く「医院」がもう一つの現地として登場する。
1961年とは、国民皆保険の開始があった記念すべき時期であり、「保険点数表」は、その前の58年に「新医療費体系=統一単価」が導入されている。
なので、この映画における「医療」は、「端境期」における、森繁と左卜全演じる古い医者と、『夫婦善哉』の名残がたっぷりある、淡島千景演ずるところの新しい医者の混在状態すらも、記録されているのである。
気づけば、「名医」も「藪医者」もいなくなったのは、保険点数表の完璧な施行=デジタル化によって、医師の判断が点数表の基によるしか報酬とならないことによる社会主義の成果である。
つまり、患者たる国民は、保険点数表における「平均値」と「バラツキ」すなわち「偏差」の上でだけで診療・投薬を受けているから、かなり実験室のモルモットとおなじ扱いなのである。
この意味で、医療も工業化されたのが高度成長期といえ、現代はその完成の結果にある。
そんなふうに本作を観賞すると、はたして「喜劇」なのか?とおもえてくるのは、土地成金の逆転した親子関係や、食と農をどうするのか?といった、まったく現代的な社会問題の萌芽があっさりとした描写にあって、深刻性は打ち消してはいるものの、ハッキリとみてとれるからである。
65年が経過して、笑えない「喜劇」となっている。

