「成人の日」を迎えて、お正月は終わる。
寒くなるとなぜか心にしみる演歌のように、時代について行けなくなった自分を「時代遅れ」だと実感することがある。
観ることはなくとも出場歌手の出番リストを念のためにみた昨年末の「紅白歌合戦」では、もう手指の数で十分足りる「しっている歌手の名」が、しらない歌手の名に「埋没」しているのをみて、自分がまったくの「時代遅れ」になったことを思いしった。
わたしの両親も、基本的に「紅白嫌い」で、同日の夕方から放送される「懐メロファン」だったけれど、いよいよその気分が理解できるようになったのである。
たとえば、年末でも明るく希望があった昭和40年代で、とっくに「懐メロ」だったのは、わたしが生まれる前の大ヒット曲、並木路子の『リンゴの唄』でさえも、当時からしたらたかだか20年数前の唄で、山口百恵やらがいまからしたら半世紀も前になることの重みを実感するだけなのである。
なにせ、「大トリ」の定番、美空ひばりが亡くなって35年以上になる。
それゆえもあって、「昭和」とはなんだったのか?という疑問が、ふつふつと涌いてくるのである。
とくに、「昭和」の大きな特徴は、敗戦をはさんでの前半と後半に分ければ、ほとんど前半が無視されることの、「ふつう」が実は「異常」におもえるのである。
わたしの親世代は、おおかた物故してしまったし、このひとたちは、とくだんの「想い」を語らずに逝ってしまった。
それだから、「想い」を語った書籍などを、一般資料として読むしかない。
昨年末に読んでみた『ナチス叢書』が興味深いのは、その論の根底にある「分析」と、その分析の根拠となる「事象」の捉え方が、後世の読者であるわたしには、「錯誤」としか読めないのである。
書いたのは海軍大将で、編者は陸軍中将の一冊である。
いわゆる職業軍人(軍事官僚)のトップという、当時のエリート中のエリートが、「この程度」という認識のお粗末さで、一国の運命どころか「世界情勢」を語りながら、実際に「手をつける」という行動にしたことの驚きである。
ならば、一方的に「時代錯誤」をしたのはわが国だけか?といえばそうではなくて、ほとんど全世界の指導者たちがおなじ「錯誤」をしたのだから、まさか「悪霊」に取り憑かれたのではあるまいしとすれば、なんだか「ある意図」を感じるのである。
それが「こっくりさん」のような、物理現象を霊的と勘違いすることなのか?どうなのか?
いわゆる「事象」の原因を追及すれば、そこにはかならず人間の感情があるというものだ。
その感情が、行動をとらせ、これらが連鎖反応して結果的に「事象」となる。
すると、すべての事象の大本には、個人の感情がある、というのが結論なのである。
ならば、「感情」をつくるのはなにか?という問題になって、あまりの深さに困惑することになる。
例に挙げれば、『第九』の後にヴェートーベンが没頭した、『弦楽四重奏』の神域である。
この絶対音感の持ち主が、失った聴覚をものともせずに脳内に浮かんだ感情を音符に変換して書きとめたとしかおもえないからである。
そのために、まったく古びることがないのは、時代遅れとはぜんぜんいえず、かえっていつも新鮮なのである。
そこに錯誤がないからだ。
ところが、人間の実務では、錯誤ばかりなので、それが集中すると時代遅れになる。
この理由は単純で、実務をこなす、とは、目先のことだけに囚われるからである。
もちろん、目先のことだけに囚われている人間は、感情を棄てて作業をすることに集中するから、そんな実務の発端・根源をかんがえることもないことにも気づかない。
おそらく永遠に「経済史」に残る、1971年の「ニクソンショック:金本位制の終わり」も、ほとんどのひとが「時代錯誤」をしたままで過ごしている。
全世界は、史上初めて価値の根源を失った=ただの紙切れになった「通貨」としての「ドル」を容認せざるを得ず、これによって「パクスアメリカーナ」が完成したのである。
しかして、世界の工場になった英国の宿命的なデフレによる没落を、これでアメリカは回避し、後からやってきた改革開放の中国は、日本が英国とまったく同じ轍を踏んでいることをもって、人民元をドル・ペッグとして回避した。
それだから、米中の争いは、おなじ通貨の仕組み同士の闘いということにあるけれど、親亀の上に乗る子亀の不利は否めない。
ちなみに、英国と日本、そしてドイツの没落は、プラザ合意以来の「ドル安」をもって、これらの国の富を、アメリカが吸い上げるために起きたことで、アメリカ人の富の源泉をいつまでも貢ぐ体制になったからである。
『マネー敗戦』と『新・マネー敗戦』という錯誤の修正で理解できるので、時代遅れからすこしは抜けることができる。
ついでに、軍事官僚にとって替わった経済官僚の無様を、『霞ヶ関が震えた日』というルポルタージュでしることができるから、これもひとつの「時代遅れ」からの脱却手段となろう。
役人の無謬性=エリート役人は間違えない、ということこそが、時代遅れなのである。