東国三社を巡ってきた

「東国三社」とは、[鹿島神宮、息栖(いきす)神社、香取神宮のことである。

幕末まで「神宮」といわれる神社で最高位の場所は、伊勢と鹿島、香取の3カ所しかなかった。
鹿島と香取の2カ所は、利根川をはさんで近くに鎮座しているが、別々の「神宮」なのである。

日本史の空白はいろいろあるけれど、縄文から弥生、それから古墳時代を経て奈良に飛ぶ。

けれども、関西(畿内)からみたらへんぴな田舎の関東に、古墳は大量にあって、それがどうやら縄文時代からあったという「日高見国」の遺跡ではないかという。
すると、われわれがしっている「ヤマト」と、二国が並立してあったことになる。

鹿島の神は、「タケミカズチノオオカミ」という軍神で、雷をイメージする。

この神宮にはいくつかの鳥居があるが、太平洋(鹿島灘)側には、「東の一の鳥居」がある。
このいわれは、タケミカズチノオオカミが、大甕(おおみか:現在の日立市大甕)に住む悪神 天香香背男(あめのかがせお:天津甕星)を討伐するために上陸した場所に建てた、とある。

つまり、海からやってきたのであって、悪神とは、おそらく日高見国の末裔ではなかったか?

それから、高台の「高天原」に登って「国見(くにみ)」をした場所が、「鬼塚」という敵の首を埋めたともいうこんもりした山になっている。
現場は大変荒れていて、塚を下から見上げる妙な見台にはいくらかの「お賽銭」があった。

その「海」を彷彿とさせるのは、タケミカズチノオオカミは、アマテラスの命で出雲の大国主命との「国譲り」における活躍をした神だから、ぐるっと廻って出雲から海路をつうじてやってきた、というイメージとなる。

そしてなんと、鹿島神宮の境内には、「大国主」を祀った祠も存在するのである。

有名な「縄文海進」をシミュレートすると、鹿島神宮はしっかりと陸地にあって、霞ヶ浦も北浦もそのまま「海」であった。
なので、対岸の香取神宮とも船で行き来できる。

いまのように「淡水化」したのは、徳川家康からはじまる、「利根川東遷事業」による利根川の付け替えによる。

それで、鹿島神宮の正門も、いまの位置に変更となったが、これ以前の鎌倉時代まではいまだと裏門扱いの「御手洗池」が正門にあたったのである。
その御手洗池の奥に、「大国主」が祀られているから、正門のすぐに配置されたとかんがえないといけない。

二代秀忠がいまの本殿を寄進したので、家康が寄進した本殿は「奥宮」に移転(隠居)したという。

このあたりは、隆慶一郎の『影武者徳川家康』をおもいださせる。

とにかく、これら「東国三社」の不思議は、よくわからない「歴史ロマン」のままなのである。

さらに、鹿島の「鹿」が、奈良・春日大社に送られて奈良公園の鹿になったことは有名だが、どうしてタケミカズチノオオカミが「鹿」となったのか?は角と雷の形が似ているからか?
なんにせよ、春日大社といえば、藤原氏のためのものである。

その藤原氏も、じつは出自がよくわからない不思議な一族で、元は物部氏に仕えた神官・中臣氏であったのが、天智天皇の乙巳の変の功績で「藤原」を賜ったとされる。
初代は、中臣(藤原)鎌足だ。

その鎌足出生の地という場所が、鹿島神宮の西近くにある「鎌足神社」だという。

それで、鹿島神宮の神職は現代までずっと中臣(藤原)氏となっている。

だから、ここからご分祠して、香取とともに春日大社の主神となったのである。
すると、奈良と鹿島・香取のなんと近いことか?

ついでに、海の続きでいえば、鹿島から「児」がいった先が「鹿児島」だという説もある。

それで、天孫降臨の宮崎に話が飛ぶが、上に書いたように鹿島神宮の近くにある丘(縄文海進でも陸地だったと確認されている場所)に「高天原鬼塚」という古墳らしき遺跡が荒れたままのこっているのである。

これが、悪神・天香香背男の一族だとしたら、なんと高天原とはなにか?というはなしにもなって、とにかく壮大な物語が隠されていることだけはわかるのである。
ちなみに、この周辺の住所も「高天原」なのだ。

息栖(いきす)神社、香取神宮のどちらかから参拝をスタートして、それぞれに「御朱印」をいただいた上で、鹿島神宮での参拝と御朱印が満願すると、記念に「木札」がいただけるとあったが、残念ながら紙になったいた。

これも現代のコストカットか?

どうも、古代において、このあたりが関東の中心部であったことはまちがいなのであるけれど、神社経営の現実に引き戻された感があった。

だが、鹿島神宮の四方(東西南北)にある「一の鳥居」をぜんぶ廻った。
南の鳥居は、息栖神社の一の鳥居とおなじ、北浦の水中に立つ西の鳥居は、日本一の高さの鉄製で、厳島神社より大きいが、木製だと厳島神社が日本一の高さとなっている。

北の鳥居は、だいぶ離れた戸隠神社の横にあって、そのまま自動車でくぐれる道路をまたいでいる。
これら鳥居が「結界」の印なので、広大な面積が「神域」だということである。

そのエリアを示す地図は見あたらなかった。

こうしたことが、日本の観光地(神社仏閣)の、曖昧な利点でもあり、不親切なのである。

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