柳田國男で温故知新

この世には「名著」だけでいったいどれほどの書籍があって、それを読破するにはどれほどの時間を要するものか?

昭和5年から翌年にかけて朝日新聞が発刊した『明治大正史』の第四巻が、柳田國男が担当した『世相編』であり、いま、『明治大正史』として復刻発刊されている名著のひとつである。

ために、本書は、朝日新聞版、定本版、東洋文庫版、中央公論社版、講談社学術文庫版、角川ソフィア文庫新編版といった各版が存在している。

柳田が「自序」として書いたなかに、「じつは自分は現代生活の横断面、すなわち毎日われわれの眼前にでては消える事実のみによって、立派に歴史は書けるものだと思っている」とある。
ただし、このあとに、「失敗した」とも残している。

けれども、柳田は失敗なぞしていない。

いまから94年前に書かれた、それ以前の生活の断面は、むしろ貴重な記録として燦然と輝くのである。
しかも、著者は、わが国民俗学の祖なのだ。

柳田自身も、当時の「朝日新聞社」の重鎮であった。
21世紀のいま、倒産の危機にあるとはだれが想像したであろうか?

よって、本書は、まさに当時の一般人向け教養講座のひとつとして書かれているから、まちがいなく読みやすい。
現在のところ版の最後=最新にあたる、「角川ソフィア文庫新編版」では、現代人にわかりやすいよう細い注が大量に配されている。

94年前の日本語の単語が、もうわからないことへの配慮なのであるが、やり過ぎ感があるのは、さらに100年後を見据えているからなのだろう。

欧米の知識人は、一般にいま起きていることの根には、最低でも200年は遡らないとわからないことを常識としている。
「舶来信仰者」からしたら残念ながら、わが国の文化的発展は、欧米の比ではないほどの高度さだったかから、現代日本での出来事の根は200年辿れば済むような簡単さではない。

幕末・明治以来、ふつう、欧米の方が進んでいるものだと決めつけて、戦後はアメリカ一辺倒になったのは、まったく筋がとおらない暴論である。
それは、すこしばかり早かった産業革命の産物としての目線でしかないからである。

文化が衰退すると文明となって、やがてこのサイクルの文明も滅び、あたらしい文化が生まれ、それがまた衰退して文明となることを何度も繰り返しているのが人類だ。

逆に、古くから文化先進国だったわが国では、なかなか文明に堕落するまでの衰退がないので、国民のキャッチアップ速度と津々浦々まで文化が浸透し影響の広まる速度の方が、はるかに欧米よりも高度なので、織豊時代の宣教師や幕末・明治の外国人からしたら、「異常」なまでに見えたのである。

しかし、実質的に世界帝国だった英国の傘下に組み込まれた、明治・大正の時代とは、過去の習慣・風習を急速に捨てる「欧米化=文明化の堕落」で成り立っていたから、(伝統)文化とのトレードオフの関係があった。

おそらく、その捨て方のバッサリ感も、あたかも「ちょんまげ断髪」のごとくで、戦後の高度成長どころではなかったのではないか?

ヨーロッパでいえば、いまだに王侯貴族たちの身分制があることだけを捉えても、わが国の変化は尋常ではないことがわかる。
これはもう、「良い悪い」という問題ではない、別次元で起きたことの事実だ。

当然だが、この書でいう「現代人」とは、昭和5年当時の読者諸氏を指している。
しかし、その浅さは、21世紀まで時代を下るごとに薄さをましていることがわかる。
それは、けっして「研ぎ澄まされた」という意味ではなく、浅はかになる文明化なのだ。

柳田國男の生まれは、明治8年(1875年)で、昭和37年(1962年)に逝去したから、戦後の高度成長を見据えてもいた。

これは別のたとえでいえば、「明治女」を書き残しておきたかった、と執筆動機を語った、橋田壽賀子がいる。

その代表作『おしん』の主人公、谷村しんは、明治34年(1901年)生まれの設定としていたのは、1925年(大正14年)生まれの橋田からみて、自身の母世代のイメージからであると書いている。

還暦を過ぎたわたしからみれば、昭和5年は母の生まれた年であって、明治36年生まれの祖母の話が記憶から呼び覚まされるおもいがする、どこかに懐かしさが湧いてくる本なのだ。

確かに、こんなひとたちがいた。

しかし、やがて、『おしん』さえも、過去と分断された戦後の日本人には、自分とは関係のない「資料」になってしまうのではないか?

さて本書の記述法として、柳田は一切の固有名詞を意識的に排除したことが、一般論として効果をあげている。

いまのひとたちは、「未来志向」という名分で、過去を顧みないのは、進歩主義=社会主義にすっかり洗脳されてしまったからだ。
しかし、『おしん』の前半、すなわち「貧乏物語」へと徐々に戻っていく現実の衰退を通じて、いつしか実感になったときが「復活のとき」になるのか?

温故知新、すら死語になりつつあるいま、読んでおくべく一冊であろう。

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