前回に触れた、「核廃絶」と「核抑止力」のはなしの続きである。
ノーベル賞の5つの部門に、「経済学賞」は存在しない。
・物理学
・化学
・生理学・医学 の3つが理系で、
・文学
・平和 の2つが文系だ。
経済学賞は、「アルフレッド・ノーベル記念スエーデン国立銀行経済学賞」が正式の名称であるから、ノーベル財団は「ノーベル賞」の使用を認めていないのを無視して報道している。
ちなみに、世界経済に多大な影響を与えているアメリカの中央銀行たる「FRB」は、完全に民間企業で、トランプ政権2.0では、「廃止」が検討されることが決まっている。
もっとも胡散臭い「平和賞」が、正規のノーベル賞だという妙なことになっている。
ひとは最終的に名誉がほしくなる傾向があるのは、死んで後世に名を残す方策を意識するからである。
そのために、人類世界最高峰という一般的な名声の「ノーベル賞」を受けることは、格別の名誉になる。
なので、学者も「ひと」だから、ノーベル賞を受けるための作戦を立てて、演繹的に狙い撃ちする本末転倒なひとがでてくるのも、人の世のことなのである。
2024年の平和賞は、日本の団体に決まった。
受賞理由は、「核兵器のない世界の実現に長年にわたって努力し、核兵器が二度と使われてはならないことを証言を通じて示してきた」ことと、「並外れた努力が核のタブーの確立に大きく貢献した」ことだと発表されている。
とうぜんに一般人のわたしがノーベル委員会にかかわるものではないけれども、「なぜ?」という疑問があるので書いておく。
ねんのため、今回の受賞をディすることが本稿の意図することではなく、ただ本質的に疑問がわくのだとおことわりしておく。
まず、「努力」の評価であることが変で、「効果があった」という実態がないものに違和感がある。
「理系」ならば、研究の努力だけで受賞することは不可能だ。
次に、わが国へ二発投下したアメリカを含めて、核保有国のどの国も三発目を投下していないことと、ここでいう「努力」になんの関係性もないとかんがえるからである。
もっといえば、「使えない」という現実が核にはある。
それは、報復を恐れることからという一択の理由で、よって核保有国は核保有国に核を使うことはないが、一般論にまでなっているからだ。
そこで登場する問題は、核保有国は非核保有国に対する「核の恫喝」をもって支配力を強めるという行動原理が生まれることにある。
なので、今年の受賞者の発表があった後に、ウクライナのゼレンスキー氏が、ウクライナの核武装化を模索するとの発言をしているのは、上の事情そのものがあるからだ。
もちろん、イスラエルとイランの睨み合いが、あんがいとヒートアップせずに冷静なままなのは、どちらも「核保有している(かも)」という状態にあるために、通常兵器だけを手段として双方が疑心暗鬼の上で自制しているともいえるのである。
このために、かつて威勢がよかったアラブ諸国(たとえば、エジプト、サウジアラビアなど)は、どこも非核保有国のために、「お呼びでない」状態になっていて、かえって紛争への介入による拡大(第五次中東戦争)になっていないのである。
とうぜんながら、これを石油市場は見越していて、原油価格は落ち着いている。
ゼレンスキー氏の思考を支持するものではないが、これはひとつのエントロピー拡大の法則であって、核は拡散される、ことがあたかも物理法則化しているといえるのである。
さて、そこでよしんば、「核廃絶」を核保有国の間で決めたとしても、決めるのは核保有国なのであって、ここに非核保有国の出番はない。
なんだか、地方を旅行して、街外れにある「非核宣言都市」なる摩訶不思議な看板を見るがごとくなのである。
川端康成の名作、『伊豆の踊子』には、「物乞い旅芸人村に入るべからず」の看板があったことがわかるので、これの「上書」きなのだろう。
もっていないものを、「持ちません」とわざわざ宣言することの無意味は、看板屋を儲けさせるだけの施策にしか見えない。
貧乏になった日本なのに、核放棄のご褒美にカネを配れ、とでもいうのだろうか?
だが、核保有国の立場からしたら、よしんば「核廃絶」が決議されても、ほんとうにぜんぶ破棄するのか?とか、もう製造できないのもほんとうか?という疑心暗鬼を生むのはまちがいない。
なにせ、核はとっくに人類共通の「技術」になっているから、製造方法が学術的な資料にもなって世界に拡散しているのである。
すなわち、核廃絶にはこれらの資料の「焚書」をやるだけでなく、しっているはずの学者を監視しないといけないが、そんなことはまったくもってできっこないのだ。
さてそれで、核には二種類が確立された。
・戦略核
・戦術核 である。
現代において問題なのは、戦術核の大量生産である。
かつて、米ソ冷戦時代に、これらの超大国は互いに「戦略核=大陸間弾道ミサイル」でにらみ合っていた。
しかし、技術の進歩は、超小型核=戦術核の製造だけでなく、政治的な有効性にも気づいてしまった。
それは、狭い地域に展開する兵力を殲滅させることができる、という一点でも、抑止力になったからだ。
なぜなら、いまどき「兵は消耗品」という思想が消えて、いかに兵の消耗を最小限にするか?が政権維持の価値観になっているからである。
兵=国民=一般市民、だからである。
つまり、事実上、戦術核さえも「実戦では使えない」のだが、所有していることがもう通常兵器での戦闘すら「核恫喝」の効果を持って抑止するのである。
そんなわけで、イスラエルとイランは、互いに引いてむかしのような派手で大規模な攻撃をしないでいる。
それで、「非核」のガザで正規軍たるイスラエル軍が、民間人への攻撃に徹しているのである。
問題は、東アジアにおける戦術核の保有国に囲まれているのが、わが国だという事実である。
これが、日米安保体制を揺るがしている。
航空機による空と、潜水艦による海中をもって三次元での「空母を中心に置く輪形陣」を組む、たとえばアメリカ第七艦隊も、一発の戦術核で殲滅されてしまう。
さらに、ウクライナの劣勢は、ドローンの大量投入による無人兵器による戦術が、過去からの重装備(たとえば最新鋭戦車)を無力化していることを示すので、ますますわが国の防衛は過去の遺物によっている問題が露呈しているのだ。
御殿場の富士演習場で公開される陸上自衛隊の姿は、時代遅れそのものとなっている。
そのドローンさえ、いまや大量生産できないほどになっているのが、わが国の工業力になってしまった。
さあどうする日本人。
こんな重大なことも、衆議院選挙の争点にならないのであった。