森薫『乙嫁』を読む

コミック音痴のおじさんが、このところ感心しているのは、世界評価の高さを裏付けるものがあると、いいかげんに今さらながら認識を新たにしたからである。

19世紀ヴィクトリア朝のロンドンを舞台としてアニメ化もされた『英國戀物語エマ』は、原作もまだ観ていないけれど、その表現のこだわりに関する評判の高さは、やっぱり気になるところである。

どうやら、英国人ばかりではない外国人ファンからの感嘆の声に、なぜ地球の反対側にいる日本人がかくも時代考証が完璧な、BBCでさえも制作できないような作品が描けるのか?があることも、十分に本作に挑みたい動機ではある。

しかし、そんな興味を超えたのが、中央アジアを舞台とした本作『乙(おと)嫁語り』であった。

いわゆる「スタン国」が並び、日本人に似たモンゴロイド系の民族(おおくはトルコ系)が住む地域ではあるが、サウジアラビアから東の広大なロシア大陸の縁に横たわるこれら地域は、残念ながら現代日本人にははるかに遠いエリアとなっている。

あの知の巨人、梅棹忠夫にして「中洋」と呼ばしめたのは、西洋と東洋の中に挟まれているからという「単純さ」が理由であって、だからといって何か濃い特徴を見出せないために、「アジアはない」という主張での文脈における地図上だけの記号としての表現であった。

たとえば、料理にしても、アラブの伝統料理と中国深部の料理は、ほとんどおなじ味がする。

コロナよりもずいぶん前に横浜中華街にあった、「大陸料理」の専門店は、ほとんどの客が日本人ではなかったから、まったく日本人向けのアレンジをしない、「本場」そのものの料理ばかりであったのだが、どうしたことか閉業してしまったのがいまだに残念である。

美味いか不味いかではなくて、わたしには20代前半に暮らした、エジプトを偲ばせるに十分納得のいく、「懐かしい味」が確認できたのである。

これを、シルクロードで繋がっている、といえば、ずいぶんと情緒的にはなるが、梅棹がいうように、真ん中が空洞同然なので、1000キロm単位での地点移動となる気分になったのが、十分に不思議が気がしてならない。

「青丹よし 奈良の都は 咲く花の 匂ふがごとく 今盛りなり」と万葉集にあるのは、アジアの「辺境」を歌ったのではなくて、中央アジアの香りが文字通りプンプンしていたのだとおもっている。

しかし、彼らは気候と地理条件によって、農耕ではなく遊牧の民だった。

いまでは、縄文時代が狩猟採取生活だったとはいえず、かなり早い時期から農耕=定住生活に移行していたことがわかっている。
遺跡のコメをDNA解析したら、もしや米作をはじめたばかりか普及したのは、縄文人ではなかったかと疑われだしている。

さてそれで、ディテールにやたらこだわることが『エマ』でわかっている森薫女史の本作も、中央アジアの女性と結婚のディテールにはまりこんでいて、民俗学的教養マンガになっているのである。

これは驚きとしかいいようがない。

日本人作家が、結婚や家族を中とした自分たちの生活文化を詳細に描いてくれて、はじめて自分たちの文化価値をしった、という評価は、公式見解だけでなく現地人たち多数の納得をえているのである。

それがまた、日本語学習熱につながって、若者世代の7割が簡単な日本語会話ができるようになって、とある国の教育省次官は、「時間の問題(20から30年後)には、わが国の第二公用語が日本語になる可能性が高い」と発言している。

政治的・歴史的につながるロシア語ではなく、政治的・歴史的につながりが浅い日本語の方が、「色がない」ことでの安心感があるというのである。

しかして、第1巻に登場する「乙嫁」は、スーパー・レディーである。

こんな嫁が欲しい、という感情が、「こんな」をはぶいて、「嫁が欲しい」になるだけでも、少子化対策になる。
将来の夢を少女にきいて、ほとんどが「お嫁さん」とこたえていた時代は、ついこの前のことであった。

家族の破壊が、政治によって急速に実行された「成果」が裏側に見えてくる、そんな作品なのである。

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