「権威」とはなにか?を辞書で調べると、「第一人者」という意味と、「威厳としてひとをおさえ従わせる威力」という二つの意味が重なっていることがわかる。
むかし「平」のサラリーマンをやっていたとき、業務上のことで別の部署の上司に質問しに行かされて、直属の上司に「あの部長がこう言っていました」と報告したら、「馬鹿野郎!」と返されたことがあった。
誰が言っているからが理由だということをききに行けと命じた覚えはない。
どんな理由でそれが慣習化しているのか?ということを聞いてこいと命じたのだ、といわれて、もう一度同じ人物のもとへ行って質問したことがある。
すると、おおいに説明が困難で、慣習ではなく因習であることがわかって、結果として業務改善につながったということがあった。
以来、誰が言っているからという回答を、わたしも許さない上司になった。
あるとき、わたしが言っているから、という理由で役員会まで深い理由を問わない状況にあることに気づいた。
なんと、わたしが「権威」になっていたのである。
このことが、この会社を退社することにした理由のひとつになったのである。
これには、役員(取締役)になるような人物たちが、わたし程度の権威に従うことのヤバさという意味があるし、かつてわたしが怒鳴られた「正論」が、まったく企業文化になっていない特別な経験だったことに驚いたのである。
権威の反対語は「無権利」だと辞書にあるが、他人になんの影響力も与えないという意味であって、それは「浅はか」だという集団内での共通認識にもなる。
そんな無権利な連中が役員をやっている会社に用はない、と断じたのであった。
しかし、一方で、わたしは「権威あるまま」で退社したようなので、もう20年も経つのに、わたしの権威にすがりたいとおもうひとが残っているらしいのが、なんだか面はゆいのである。
ときに、そんな「権威」が、自爆する時代になっている。
たとえば、「ピューリッツァー賞」という、だれもがしっている世界的大権威に、トランプ氏個人が名誉毀損で訴えていて、この訴えを棄却するように反論していた「賞」の側が敗訴していたことがわかった。
つまり、裁判所は、トランプ氏の訴えに聴く耳があると判断した「だけ」なのであるけれど、報道者の権威だけではない存在の側が、個人の名誉を押しつぶそうとしたことに、一種の暴力すら感じとることができるものであった。
内容は、「ロシア疑惑」を報じた社が、ピューリッツァー賞に輝いたことの、「取り消し」を求めるものである。
なぜならば、民主党ヒラリー陣営が捏造した嘘物語がロシア疑惑であったと、すでに判明しているからである。
ようは、嘘を書いてピューリッツァー賞を得たのはおかしいから、「権威ある賞」として訂正と取り消しをする当然がある、という被害者個人からの訴えをなかったことにしようとしたのである。
じつは、ピューリッツァー賞の審査は、かつての新聞王ピューリッツァー氏の遺言によって、「コロンビア大学」が受託している。
ハーバード大学だけでなく、アメリカの主だった大学が「(極)左傾化」していて、総じて「親民主党(グローバル全体主義)=反トランプ」をむき出しにしている実態がある。
つまり、トランプ氏個人の訴えを無視しろとしたのは、コロンビア大学なのである。
この結果、ピューリッツァー賞だけでなく、コロンビア大学の権威も失墜している。
しかし、その原因こそ、「身から出た錆」にほかならない。
サービス業に従事する者なら特にだが、いったん失われた信用を取り返すのは至難の業であることをしっている。
「賞」というモノやコトも、サービスのひとつだから、いったん社会が疑いの目を抱くようになると、「最高権威」ほどキズが付くものだ。
キリスト教などの「契約宗教」による社会は、たいがいその契約には「死まで」という期限があるのは、結婚式における「誓いの言葉」にあることでもわかる。
しかして、遺言の厳密なる履行とは、「法治」の基盤によるものだ。
けれども、その「法」も、本来ならば神との契約に基づく構造にある。
コロンビア大学は、ピューリッツァー氏の遺言の履行すら裏切っているといえるから、これはまさにキリスト教の希薄化どころか社会基盤の喪失をあらわしているといえる。
なるほど、共産主義が宗教を敵視するように、これに染まった大学も、その権威の基盤を自ら放棄した結果がこれだとしれるのである。
ことの深刻さは、裁判どころの問題ではないのである。