横浜交響楽団「第九」の刹那

15日昼、14時開演のコンサートに出かけてきた。

『横浜交響楽団』は、昭和7年(1932年)に結成された「老舗」で、アマチュア・オーケストラとしての立ち位置をまもっている。

わたしが、はじめてこのオーケストラを聴いたのは、中学生の頃で、県立音楽堂まで自転車で向かい、料金は当時100円であった。
「神奈川奉行所」があった、「紅葉坂」の上にあるので、行きは苦しくて帰りは坂を下りればよいのだが、開演に間に合わないようなときには「心臓破り」だったのを覚えている。

いまでも、定期公演は県立音楽堂だというが、年末の「第九」だけは、「神奈川県民ホール」の大ホールが舞台だ。
市民合唱団の数が、370人越えという規模なので、音楽堂ではおさまらない。

日本が豊かになったのか?貧しくなったのか?という議論において、「遅効」的なのが文化の分野だろう。
一定のレベルに達するまでの、練習・訓練に時間を要するからである。

つまり、豊かだった時代をいまこそ反映している、という意味となる。

こうしてかんがえると、あと何年間かいまのレベルを維持してから、ゆっくりと堕ちていくのだろうという予感は、瞬間的に消えていく芸術たる音楽においては、その意味が重なって、妙な郷愁すら感じたのである。

コロナ前には、都内有名大学のオーケストラによる「第九」を、「みなとみらいホール」で聴いた。
このときの驚きは、『のだめカンタービレ』を彷彿とさせられながらも、そのレベルの高さに驚いたのである。

音楽大学でもない学生たちが奏でたのは、幼少時からの「育ちのよさ」であった。

これを機に、アマチュアが限りなくプロに近づくさまを意識するようになったし、プロがプロとして生活できることが、なんだかんだと豊かさを表すものだとおもったのである。

合唱団は、各区の地区センターで平日の日中に練習しているのか?とおもうほどの高齢者が目立ったが、これは予想通りのことで、どこまで「ノイズ」を出すのか?と余計な心配をしたが、あっさりとよい意味で裏切られた。

指導法もさることながら、やっぱり過去の豊かさを「遅効」して表現しているとおもえたのである。

30代の若い指揮者が、マイクを握って、「このメンバーによる演奏はこれっきり」という、まさに「のだめ」のような話に、仏教思想としての「刹那」をおもわざるを得なかった。

いったん話がかわって、7日にパリ・ノートルダム大聖堂の再開式で、マクロン大統領が行った演説内容が、ようやく伝わってきた。
なんと、「フリーメーソンを賛美した」といい、儀式での衣装も、この組織を踏襲したデザインであったことがヨーロッパやアメリカで話題になっているという。

かんたんにいえば、本来、カソリックの大寺院であるはずの「ノートルダム(「我らが貴婦人=聖母マリア」という意味)」が、アンチ・カソリックのフリーメーソンに乗っ取られた、ということである。

だがしかし、フランス革命がカソリックを否定し、大弾圧をしたことは史実なのである。

すなわち、革命派の「グローバル全体主義」の正体がここにある。

『歓喜の歌』を作詞したシラーも、ヴェートーベンも、共にフリーメーソンの会員だったことは、やっぱり史実であるし、ヴェートーベンの先輩にあたるモーツァルトもそうだった。
この時期に演奏される、『魔笛』は、ゾロアスター教を描いていると書いた。

つまり、この世俗世界にあって、『第九』は、意味深なのである。

さてそれで、「横響名物のお見送りソング」は、『蛍の光』である。
合唱団とともに観客も歌いつつ、ハミングになると合唱団も徐々に退場し、観客も自由に席をたつという趣向だ。

日本でかつて「四番」まであったこの歌の歌詞が「不適切」として、いまや「一番」しか歌わないので、念のために書いておく。

1.蛍の光 窓の雪 書(ふみ)よむ月日 重ねつつ
  いつしか年も 杉の戸を あけてぞ 今朝は 別れゆく

2.止まるもゆくも 限りとて 互(かたみ)に思う 千万(ちよろず)の
  心の端(はし)を 一言に 幸(さき)くとばかり 歌(うた)うなり

3.筑紫(つくし)のきわみ 陸の奥(みちのおく) 海山遠く 隔(へだ)つとも
  その真心は 隔てなく 一つに尽くせ 国のため

4.千島の奥も 沖縄も 八洲(やしま)の内の 護(まも)りなり
  至らん国に 勲(いさお)しく 努めよ我が兄(せ) つつがなく

この歌にも「刹那」があるのであった。

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