1961年の大映作品で、わが国初の70mmシネスコープ作品だという。
「三週間限定」という期限付きなので、さっそく視聴したが、この時期にピッタリの大作であった。
明治の「文明開化」以来、西洋が一番だと思いこまされ、その西洋に敗戦の苦渋を舐めさせられた記憶がしっかり残る時代の作品で、しかも、このような「大作」ができたのは、資金面でも高度成長下の自信であったのだろう。
戦後16年目なので、同じ時間をいまから遡れば2009年(平成21年)となる。
この年の7月、麻生太郎政権が打って出た総選挙で、あの民主党政権が誕生したのである。
さて、当時のオールスターの面々が、古代インド人に扮して共演していることの意義をあらためて感じさせてくれた。
なにせ、釈迦は実在の人物だが、イエス・キリストは、その実在が確認されてはいないというちがいがあるし、その生存した時期はイエス・キリストの時期より少なくとも500年早い。
人類最古のゾロアスター教との関係では、一応、ゾロアスター教から仏陀の思想へ影響したことになっているが、古代ペルシャと北インドの距離はあんがいと近いために、ゾロアスター教の成立時期と仏陀の生存時期との関係からすれば、それぞれが影響し合った可能性もある。
なお、「北インド」と上に書いたが、釈迦の生誕地ルンビニは、いまの地図だとネパールになる。
もちろん、仏教よりもっと早いヒンドゥー教のカースト制度があるために、仏陀がこの制度を否定したことの意味は、現代の感覚とはちがった重さがあったろう。
とはいえ、仏教はヒンドゥー教の現代インドでも2%程度の少数派ではある。
インド亜大陸に呑み込まれたくないスリランカは、逆に仏教徒が人口の8割を占める「仏教国」だが、なにせ全人口が2000万人の小国だから、2%のインドよりも信者数が少ないうらみがある。
とはいえ、世界遺産の「仏歯寺(仏陀の歯が保存されている)」への巡礼が、インド洋の対岸にあたるタイから押し寄せるのも、仏教国だと思いこんでいる日本人にはしらない世界である。
はたして、日本は仏教国で、日本人は仏教徒だといえるのか?
映画製作としては、1956年に公開された『十戒』の影響を強く受けているスペクタクルだろう。
聖徳太子(いまは「厩戸皇子」という)の時代に伝来したという、「仏教」であるが、イエスが「厩」で誕生したという逸話との関連性から、キリスト教の方が早かったかもしれないし、その前の古墳時代の「埴輪」には、あきらかに正統派ユダヤ人を模したものが多数発掘されている。
いわゆる、「ユダヤ界隈」では、「日ユ同祖論」があるし、縄文時代を代表する「三内丸山遺跡」がある青森県にはピラミッド状の「キリストの墓」もある。
そうやって想像を巡らせば、なんだか「仏教伝来」の時期が聖徳太子の時代だったという常識は、妙に「遅すぎる」のではないのか?
もしや初めは、「哲学」として伝来し、ゆっくりとその思想が浸透してから「宗教」という祈りの対象となったとすれば、日本的な「大乗仏教」に変容したことの理由が分かる気がするのである。
ちなみに、平城京の遺跡から、大量のペルシャ人官吏がいたことの証拠となる木簡が発見されているために、インドを通り越した交流があったことは確実で、「平家ペルシャ人説」だってある。
万葉集にあって有名な、
あをによし 奈良の都は 咲く花の、にほふがごとく 今盛りなり
派手派手の平城京は、飛鳥時代からの極彩色が引き継がれて、後世の「詫び寂び」とはぜんぜんちがう「原色」の世界なのである。
これは中国風なのか?なんなのか?とにかく、染色する技術があっただけでなく、染料の原料もあったことがわかる。
初代「東大寺大仏殿」は、いまよりもおおきく、江戸期に再建された三代目のいまある「唐破風」は、前の二代にはない残念がある。
ちなみに、大仏殿内に、推定復元模型が設置されているので、失われた過去の傑作を偲ぶことができる。
わたしは「観光立国」をいうなら、学術的に瑕疵のない「復元」をすべきだとかんがえている。
ときに、「インド」とはなにか?
じつは、よくわからない国で、かくも広大な地域がひとつにまとまっていることの方が、もっとわからない。
だいたい、われわれがしっていると思いこんでいる「インド」とは、東インド会社によってさんざんな目にあったイメージを原点としている。
だから、紀元前500年とかの「インド」がどんな状態であったのか?を想像することは、かなり困難なのである。
なにせ、この時期のわが国は「弥生時代」なのである。
つまり、DNAの観点でいえば、縄文人がゆっくりと僻地に追いやられ、渡来系の弥生人によって、あたらしい農耕文化ができた時代のことをいう。
この時期に、「移民」による住民たちの入れ替えがあったのであるが、それは、暴力的な方法ではなく、「血」による交わりだったから、現代人のDNAに両方の遺伝子があるのだ。
これを、「交雑」という。
すると、かくも多数の移民たちが、「仏教哲学」を持ち込んで、縄文からの文化と混合すれば、なにが起きたのか?というはなしになる。
そうやってかんがえれば、「世界宗教」も、ひとつのグローバリズムである。
だが、「仏教伝来」の飛鳥時代からはじまったという「檀家制度」が、とうとう一向一揆に手を焼いた経験から、一般人に強制させた江戸幕府によって、「葬式仏教」になって、寺と宗教が、「信仰」の世界から経済団体になったのである。
そのために、人口減少と経済との衰退は、神社仏閣の土地建物を、経済価値だけで取引する「無宗教」にまで成り下げたし、これをまた外国人が購入し、別用途に変えるということも日常的になった。
これは、「あたらしい弥生時代」の到来なのか?
それで、仏陀の教えはふたたび復活するのか?どうなのか?難しい時代になっている。
古代人たる「仏陀」が悟ったグローバル(普遍的)な倫理と宇宙の真理をいう宗教観は、最先端科学たる量子力学の知識と通じる驚異があるのに対して、残りわずかな任期中でも、邪悪を実行するバイデン政権のグローバリズムとは、まったくことなる。
グローバリズムにも、区別が必要な時代なのである。
ことしも、具体と抽象の行き来をなんどもしないといけないのは、こうした思考をしないと、邪悪に堕ちるからである。
もはや僧侶が教えてくれない「仏教」を、個人があらためて研究しないといけないともいえるのである。