国によって歴史観が異なるのは、それぞれに生活の事情が異なるからである。
たとえば、現代エジプト人の歴史観は、当然に古代エジプト人とはまったく異なるが、その複雑さは日本人からはかんたんに理解できるものではない。
われわれ日本人だと、学校教育の場で、最後の女王クレオパトラが自害した後のローマ帝国によって征服されたエジプトがどうなったかは教科書に載ることがないからだ。
しかし、パレスチナで生まれたキリスト教との兼ね合いでいえば、イスラム教化されるまでのエジプトは数百年間にわたって一大キリスト教国だったし、トルコによる征服からナポレオン、英国支配と、ずっと誰か他の国の征服下にあった。
こうした事情があって、自分で決める強力な指導者がいないと、雲散霧消してしまうような不安定さがあるのは、とうてい2000年以上「一国」として存在した日本人には理解の外にある。
いま、国立カイロ大学に「社会学科」がないのは、エジプト社会を(西洋発祥の)学問で整理することの困難からだと推察でき、都知事が在籍したときにも「社会学科」なる「科」があったのか?不思議にも調べて確認するひとがいないのである。
さて、西尾幹二氏による『GHQ焚書図書開封』(2008年)は、シリーズ化されて全12巻(2016年)で終了となっている。
これには、氏の体力と、まだまだあるはずの資料の発見の困難、それと、記述するのに簡単でないテーマの複雑性という複合的な理由があったからであった。
しかし、第一巻で示された、GHQ覚書のオリジナルコピーと翻訳文が示す通り、意図的になされた「焚書」なのである。
しかもこの「覚書(通達)」の日付は、1946年3月17日だから、1945年9月2日の「降伏文書調印」からわずか半年あまりで実施されていることのスピード感が、事務作業にアナログしかなかった時代として、驚異的だともいえるのである。
要は、アメリカは、戦争中(あるいは戦争前)から、詳細な日本占領(征服)計画を練っていたわけである。
なぜにあえて「征服」と書くかは、たとえ敗戦国といえども敵国文化を破壊することは明確な国際法違反だからである。
しかしまた、「国際法」の歴史を辿れば、それは狭いヨーロッパにおける戦争ばかりをどうやってルール化するか?の手段だったことを思い出せば、勝ったり負けたりする中での「お互い様」で成り立っている。
だから、国際法が適用されるのは、ヨーロッパだけのことで、それ以外は関係ないという、白人たちの野蛮な血が暗黙の了解となっているのである。
それを、優秀な日本人は、「人類全般」に適合される、普遍的な法理だと勘違いした。
もう一つの勘違いが、「天皇崇拝=現人神=日本教」という、近代経済体制を構築するのに用いた、日本的キリスト教を、天皇の人間宣言で破壊して、マッカーサーを神として崇拝するようにすり替えたことである。
これは、皆殺しにあったキリスト教「グノーシス派」がかんがえた階層構造に似ている。
神の上にもっと偉大な神がいるというもので、グノーシス派は、天界における地上を創った聖書の神の地位は最低だから、彼らが救世主と崇めた神とは「最高神」と位置付けたのである。
つまり、ローカルな現人神・天皇は最低の存在で、マッカーサーこそが「最高神」だと、日本人を教育した。
ところが、その最高神のはずのマッカーサーが、もっと上位のトルーマンによって解任されたから、いよいよアメリカ崇拝強が日本に定着したのである。
これが、「親米保守」の思想的基盤そのものだ。
そうやって、親米保守たちは、なんのための戦争だったかの理由を隠し、当該世代が消滅していよいよ最高神のむき出しの野望のために粉骨砕身している。
その人物たちが自民党を構成し、岸田氏が総裁(日本の葬祭主)なのである。
8月になれば、また今年も「悪い日本人・正義のアメリカ人(民主党)」の刷りこみキャンペーンがはじまる。