現代の自己中心的享楽主義

気がつけば、「現代とは、共有されるべき規範を喪失し、自己以外に依拠するところのできる価値を持たず、それが自由の名の下に享楽的消費と孤独な空白感へと分極化してきた時代であると考えている。」とは、ショーペンハウアーの『意志と表像としての世界』(中公クラッシクス)冒頭における鎌田康男(関西学院大名誉教授)の寄稿、「ショーペンハウアーの修行時代」にある一文である。

そもそもは、芥川龍之介全集378作品への挑戦からはじまるおおいなる寄り道であるけれど、鎌田康男氏のドイツ語論文に、『マイレンダーと芥川龍之介』があるのをみつけて、一周した感がある。

世の中には偶然が重なることがあって、膨大なページ数の本書の扉を開ける直前の横須賀線の車内では、清楚な若い女性が目の前に座っていて、スマホに熱中するいつもの光景を見ていたが、最初、光の加減かと思えた唇横の大きなホクロは、「マドンナ」と呼ぶ唇ピアスであった。

これに気づいたとき、この人物の口には、「モンロー」「スクランバー」「リップ」「ラブレット」と、それぞれの名称がある通りの場所に、「フル」でつけていたのである。

まだ20歳程度と思われるのに、どうしてこうした選択をしたのか?インタビューしたい欲求に襲われたし、金属アレルギーが心配になったが余計なお世話なのでそこは我慢した。

2004年、第130回芥川賞の『蛇にピアス』(金原ひとみ)を思い出したが、本人が生まれる前の作品ではないか?
すると、もう、こうした身体への装飾が「ふつう」になったということか?

それから、根岸線に乗り換えると、広い空席に滑り込むようにやってきた若い男性の姿は、一見してサラリーマン風なのであるが、なんとサンダルばきでしかも素足なのである。

こうした光景の直後に、本稿冒頭の文言があったのである。

そういえば、横浜市立中央図書館の近くに、「タトゥー・スタジオ」があって、開放的なこの店舗の流行ようは、外からでも施術中の様子がうかがえるほどなのである。

むかしの兵隊が独特の絵柄を入れたのは、遺体になっても本人確認が迅速にできるメリットがあったからだけれど、DNA検査法が確定した今においては、まさに「自己中心的享楽」としてのものになっている。

すると、ショーペンハウアーの求めた、自己の完成、とは程遠い、もっといえば対極的な廃頽が、一般化してしまっているといえるのが現代なのである。

しかし、日本人として興味深いのは、ショーペンハウアーが1788年の生まれであることの「遅さ」なのである。
彼は「孤独」を愛したが、これと同じ境地に至ったのは、774年生まれの空海なのである。

ざっと1000年早い。

前に、『源氏物語』と『西遊記』をくらべたが、ヨーロッパにおける有名な小説は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』(1605)がお初なので、それでも600年から日本の方が早い。

こうしたことを踏まえると、せっかくピアスをするのにかかった手間が惜しいのである。
本人はきっと「先」をいっているつもりでも、あんがいと古典的な逆行にいそしんでいるからである。

さてはいまさら、2000ページを超えるショーペンハウアーを読まずとも、空海の教えに耳をすませる方がよほど未来的ともいえるのである。

つまるところ、現代は、「個性の発揮」における二極化、すなわち、享楽的消費と孤独な空白感へと分極化してきた時代なのだろうが、その根本にニヒリズムがはびこって「自由経済圏」を破壊しているといえるのだろう。

なので、やっぱり「末法思想」が1000年続いているのだ。

そんなわけで、念のためにおおいなる寄り道をしている。

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