人類世界初の「総力戦」は、1904年から5年の、「日露戦争」だったために、これを「第ゼロ次世界大戦」と評するひともいる。
これには、戦争に明けくれるヨーロッパの事情が背後にある、いわゆるいまのウクライナと似た構造の、英・米によるロシアとの代理戦争に、日本人の血だけが流された意味もある。
ちなみに、この1904年はその前の1901年に暗殺されたマッキンリー大統領の副大統領だったセオドア・ルーズヴェルトが再選された年にもなって、マッチポンプをやったルーズヴェルトによる仲介で「ポーツマス条約」が成ったのだった。
なお、日本人には馴染みのないマッキンリー大統領をトランプ大統領は、最も尊敬する大統領だと公言している。
日露戦争の勃発は、日米修好通商条約(1858年:安政5年)から、わずか46年後のことで、大政奉還(1867年)からすれば、なんとたったの37年後のことなのである。
この37年とは、たとえば、第二次大戦の敗戦時が1945年(昭和20年)だから、1982年(昭和57年)までの時間とおなじ期間なのである。
近しくいえば、1989年(平成元年)から、来年の2026年(令和8年)という期間にあたる。
せいぜい農家の軒先での手工業の時代から、37年で近代工業国家になったというよりも、まだ「養蚕=絹」による紡績業(農業と工業の合体レベル)がわが国の外貨収入を支えていた時期で、本格的に重化学工業化を始めるのは、この後の第一次大戦の頃にまで時間がかかっている。
宇宙の大原則は、「鉄(Fe)」をつくる活動だ。
すべての「恒星」は、太陽もしかりで、核融合によって輝くばかりか、最終的に「鉄」を生成している。
それが、近代の人類社会にとって、「鉄は国家なり」というほど基本の工業製品になった。
たとえば、鉄道大好きの鉄ちゃん国家たるわが国は、世界最高峰の「レール」を作っている。
かんたんにいえば、たとえば新幹線に代表される世界最高峰の鉄道を敷設・運行したいなら、安全上でも日本製のレールしか選択肢にはいらない。
だから、「鉄は国家なり」は、いまでもうそではないし、この言葉は滅びてもいない。
A.I.を含むソフトウェアは、端的にいえば、「最高度の鉄をつくる」ための、「最高度のサブシステム」だといえるのである。
ここから、あらゆる応用がなされるのは、「鉄そのもの」と似ている。
「(国家)安全保障」を議論するとき、かならずでてくる「武器」の生産についてだって、自国で「鉄」が作れなければ、外国に依存するしかなく、その時点で「安全保障」の議論が縮むのである。
けれども、一方で、道具をつかうのはいつでもなんでも人間が必要で、その人間は水と食料がないと動けない。
ここに、「食料安全保障」があるのは当然なのである。
つまるところ、「総力戦」は、むかしより現代ほどあらゆる分野に拡大している。
「(全)産業」そのものが、「防衛力」を形成するからだし、国民という人間の素養もしかり、なのである。
ついては、これを「国力」という。
わが国は、日米修好通商条約の締結以来、「産業優先国家」としてやってきた。
あらゆる政策が、「産業」に向けられていたのが、昭和の末期から変容し始めた。
不労所得の「金融大国」になりたい、というのは、政治家や高級官僚たちが不労所得生活をしたいという意味だった。
こうして国民と政府が分離をはじめて、国民国家の看板が溶け出したのである。
これを一口に「グローバル化」と呼んでいる。
経済原則にだけ囚われれば、リカードの比較優位説を「自由貿易」の名の下に徹底的に押し進めたら、一国内だけでの「安全保障」は、ほとんどの国で成立しないことがわかった。
それは、資源の有無が支配する単純さにあるために、「安全保障」を一国で実現可能なのは、米・露・中の三カ国だけになったのである。
しかし、「中」が強いのは人口だけで、石油がない致命的な問題を一国では解決できない恨みがある。
よって、「米・露」だけの現実をみたくない、愚かな日本政府をして、負けるに決まっている英・EU(委員会)に接近させている。
これを、勘違いの「寄らば大樹の蔭」というのだけれど、英国とEUのどちらも単独で「安全保障」をまかなえるはずのない「マイナスとマイナスの足し算」にすぎないことを、日本の受験エリートたちが気づかない深刻な迷惑がある。
日・英・EUは、米・露に産業力でも勝てっこないのである。
そこで、二股を賭けるという、戦略的な間違いを平気でやるのがこれまた日本政府で、中途半端な大国でしかない「中」に、秋波を送ってはばからない厚顔無恥を世界に晒している。
たしかに、いまや、保有軍艦の艦数でも西太平洋を圧倒しているのが「中」ではある。
しかし、自国に「石油がない」という事実は、何度も書くが致命的なのである。
だからこそ、石油の埋蔵が確認されている「尖閣諸島」をわが物にする、「力での国境線変更」をあからさまにしている。
対して、ロシアへのおなじ理屈を叫ぶ人たちは、なぜかまただんまりを決め込んでいるのだ。
すると、わが国にとって原子力による艦船の建造能力が必要で、やっぱり核燃料をどうするかも現実問題になる。
それに、本来ならば、人手不足は「ロボット開発」で埋め合わせをはかるべきところ、なにもしない、という決定をして「生身の移民」を受け入れているのである。
それが、国民国家から「国民」を取り除く作業にすぎないことを、政治家も政府も認めないのは、抜け殻となった「国家だけ」が維持できればいいという安直でしかない。
しかして、このひとたちの子孫だって、国民がいない国家に棲まうことになるのを想像しもしないのはどんな了見なのか?
国民はこんな政府に、いつまでガマンが効くのか?が問われることになっている。