疲労がポンと取れるヒロポン

こないだの末尾で紹介した、「青空文庫」にある『安吾巷談1 麻薬・自殺・宗教 』についてのはなしの続きだ。

まお、「青空文庫」とは、時間の経過で消滅した著作権のない作品を集めている、無料の電子版文庫のことで、ボランティアが入力から校正、制作にあたっている文化活動のおかげで得られる恩恵をさす。

さて、昭和を代表する「無頼派」作家で有名な坂口安吾の代表作は、『堕落論』であった。

しかし、彼が「無頼派」と呼ばれるのは、ハッキリと忖度も遠慮もなく書いたことで、世相・風俗についても同じだったからだろう。
それでも人間関係が壊れなかったのは、本人の個性も含めていろんな事情があったからだとわかる。
ゆえに著作権が切れた長い時間とともに、「資料性」をましている。

ときに、ふつうの人間は生活上で当たり前のことをわざわざ書き残すことはない。

たとえば、「トイレ」での用足しは、生活上の当然だから、どんなふうにするか?とか、どんな構造の設備をつくるのか?とか、古代遺跡ならまだしも、対象が中途半端なむかしだとよくわからないブラックボックスになるのである。

奈良・平城京のお屋敷跡から大量に出てきたのは、先のとがった竹のヘラだった。

痛くなかったのか?が話題になったもので、洋式になったばかりか「温水洗浄便座」が普及したいまでは、肛門括約筋が弛んでお漏らししてしまう高齢者が大量生産されている「真逆」がある。

本稿のテーマにした、『ヒロポン』は、かつて一般人に広く愛用された「常備薬」ともいえる覚醒剤のことである。
なんだか犯罪臭がするのは、だれでもしっている「覚醒剤取締法」があるからだが、この法律が施行されたのは、まだ占領中の昭和26年(1951年)7月30日のことなのだ。

つまり、敗戦からざっと6年間は、「合法」であった。

疲れが取れるから、重労働の社会人は当然として、勉強に励む学生にも集中力を上げるために常用された。
あたかも、いまでいう「健康ドリンク」のようなものだった。

むかしのCMで、「一本いっとく?」とか、「ファイト!一発!」というキャッチフレーズは、意味深なのである。

けれども、これが習慣化すれば、中毒となってえらいめにあう。
そのために、使用回数とか使用量がふえての悪循環となり、とうとう精神病院での入院生活がやってくる。

むかしの映画やドラマに、精神病院を舞台とした作品がおおかったのは、それだけ一般人に身近だったからか?

くわえて安吾は「睡眠薬の常用」についても書いている。

なんのために睡眠薬をつかうのか?
眠るためではなく、少量の酒で酔うためであった。
なにしろ、「メチル」を呑んで失明するひとや命をおとすひとがたえなかった、酒が貴重な配給品の時代だったからである。

しかも、この錠剤を、酒のつまみにするという乱暴な飲み方があったという。

ヒロポンは静脈注射が常習者の使用法だったが、皮下注射の液体と経口の錠剤もあった。
それとおなじに、とくにウィスキーとの相性がよかったという。
強いアルコールが、なんだかしらぬが「中毒防止」になると信じられていたようで医師も推奨したとある。

ならば焼酎、といかないのは、当時の焼酎がこれまた劣悪の代名詞だったからである。

焼酎が市民権を得たのは、はるか後世の80年代で、突如『いいちこ』が出現して、想像をこえる驚きのうまさにあっという間にカネのない学生や若者世代に普及したからである。
だが、戦後の「カストリ」をしる中高年のおとな世代は、よほどの酷い目にあったのか、用心深く「焼酎ブーム」を容易に信用しなかった。

子供だったわたしの周りのおとなは、だいたいが昭和一ケタよりも前の生まれのひとたちばかりで、これらのひとたちは総じて「薬好き」だった。
酒好きだった父親は、もっぱらウィスキー派だったが、安吾のこの作品を読んでもしや?と思いあたった。

物心がついてきたわたしのしるかぎり、海軍の幼年兵から少なくともまだ30代(の若さ)だった父は、『アリナミン』を常用していたし、風邪気味だといえば子供のわたしにも『アリナミン』を飲めばいいのだといって1錠くれたものだった。

あの黄色い糖衣錠が、溶けてそのまま出てくるかとおもうほどわたしの尿は黄色くなった。

このところ、別に「アヘン」の解説『満州アヘン帝国』を読んで、ヒロポンとアヘンの「薬効」の共通点があることに気がついた。

それが、性行為における持続力だ。

もちろんウソか真か、しらないけれど、安吾も錠剤をアテにウィスキーを飲んで、そんな行為ができるものか?と書いている。

だが、戦後日本の夜の世界(米兵もふくむ)で、ヒロポンが流行ったことは、妙にうなずけるのであるし、畠山清行著『キヤノン機関』にある、大陸馬賊に交じって諜報をやっていた中島辰次郎氏の告白にある女首領とのことは、ウィスキーなしのアヘンの効果だとおもえばリアルなのである。

別の『巷談5湯の町エレジー』の文章で、伊豆半島は伊東までとその先とで文化がかわると書いている。
それが当時はやった心中事件とかの後始末を例にするから、迫力というか凄みがあるのだ。

この作品での安吾の書き出しは、
「伊豆の伊東にヒロポン屋というものが存在している。」
だ。

坂口安吾は、伊東で暮らしていたからはなしを盛っているのではない。
ただこの話の真偽を確認しに、伊東の図書館を訪ねたくはなった。

戦争で銃後の内地にいても、空襲やらでえらいめにあうのはふつうだったから、亡骸を目にするのが日常だったことが、いまからすると異様にかんじる。
とはいえ、わが家から徒歩圏の東海道、保土ケ谷宿と戸塚宿の間には、「投げ込み塚」がのこっていて、行き倒れになったひとをここに投げ込んだと説明にあるほどのものだった。

そうやってかんがえると、講和条約の前年に「取締法」ができたのは、日本からの引上げを前提にして、好き放題をやったことの隠滅を意図したのではないか?と疑いたくなるのである。

その好き放題の悪習の名残が、ウィスキーだし、『アリナミン』だった、と。

さすれば、むかしどこにでもあったけど、子供にもなんだか場末感がある『トリスバー』の怪しげな薄暗い灯りとはなんだったのか?

はは~ん、なのである。
それに、むかしは子供を居酒屋とかの呑み屋につれだすおとながいなかったのも、はは~ん、なのだ。

ましてや、わたしが育った横浜は、世界一を誇る港町=世界一荒っぽい街、だった。

いまどきなら、子供連れをありがたる居酒屋チェーンを敬遠する自分がいるけど、どうやら敬遠した当時のおとなの意味がぜんぜんちがう。
男も女も荒っぽかったむかしの自己防衛が、子供連れで呑み屋にはいかないことだったにちがいない。

青江三奈がハスキーボイスで唄った、『伊勢佐木町ブルース』の伊勢佐木町が、昼も夜も横浜の中心街で、まだ横浜駅西口全体が場末だったころ、夜9時台といういまなら宵のうちの時間でも酔っ払いはたくさんいて、親子連れでもふつうに話しかけられたものだった。

当時の東急・東横線は、夜9時をすぎると急行がなくなって、全線、各駅停車になったのだ。

それにしても、いまも「薬好き」な国民性は、世界的に珍奇な薬にも抵抗がないことでわかるのである。

はたしてこれが、「科学万能信仰」からだけのものなのか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください