痛快『われ、正気か!』

「X(旧ツイッター)」への投稿記事がバズりまくったのをいいことに(笑)、出版社からもオファーがあって本当に出版した一冊のようである。

著者は、広島県出身ゆえに、「広島弁にて執筆する」というのも、なかなかいい。
それに、5児の母というのも、もっといい。

しかして筆者の経歴は、なかなかに「複雑」なのである。

もちろん、この系統立てた理屈を行動にうつしているだろう人物が、自身をどう観ているのか?については、一貫性があるにちがいないし、もしもバラバラならば精神疾患を疑うことになる。

とはいえ、これは、だれにでもいえることなので、決してけなしているのではないので念のため。

わたしがいいたい「複雑」とは、どうして小池百合子氏が創設した「希望の党」から国政に出馬したのか?とか、どうして「日本会議」の会員なのか?という二点をもっても、理由がつかめないからである。

ただ、この度の都知事選では、「田母神俊雄氏に投じた」とつぶやいているのは、「日本会議」会員としての行動だと解釈すれば一貫性はある。
田母神俊雄氏も会員だからである。

先のブログで、都知事選を「疑う」記事を書いた。

蓋を開けて「案の定」という感想を強くしたわたしとしては、本書筆者の一刀両断的な論評を聞きたい。

さてそれで、『われ正気か!』は、たいへん豊富な知識を余すところなく、しかも、広島弁で表記した、関東人には『仁義なき戦い』(東映、1973年)を思い起こさせる粗っぽさで、痛快なる議論を母の語り口としておそらく実子の子供たちに言い残したくて書いたのではあるまいか?

かんで含んで言い聞かせているからである。

ここで語られているのは、一種の「道徳」である。
むかしは、とくに教わることなく自然にほっといても習得できたものであったが、社会が複雑化しただけでなく、個人を分断してアトム化し、果ては共産(全体主義)体制を企む連中のおかげで、この本のように「教わらないと習得困難」という事態になっているのである。

「道徳」がないと資本主義は成立しない、と説いたのは、50年代にアメリカで「国民作家」と評された、アイン・ランドであった。
なので、アイン・ランドは、資本主義を「未来のシステム」と評した。

人類は、資本主義の前提となる道徳社会をいまだに経験していないから、「未来」なのである。

すると、道徳が失われた現在をスタートラインにおくと、「資本主義は永遠に成立しない」ということになる。
ならば、「ポスト・資本主義」とか、「新しい資本主義」とかというのは、ぜんぶ「共産主義用語(=ダブルスタンダード)」に読めるのである。

本人は「物理学者」だなんて微塵もかんがえたことがなかったのは、アイザック・ニュートンである。
彼の生きた時代、「物理学」なる学問分野がこの世に存在しなかったからだ。

同じように、自身が「経済学者」なんてかんがえたことがなかったのは、アダム・スミスである。

ニュートンも、スミスも、共通なのは「英国人」だというだけでなく、本人が自身を「哲学者」だと認識していたことである。

対象を細かく専門化させることを「科学」と定義できるので、彼らの後の「科学者(自然・天然を細かく専門化させるのが自然科学、社会に状況を細かく専門化させるのが社会科学、人間がかんがえつくことを細かく専門化するのが人文科学)」が、ニュートンを物理学者にして、スミスを経済学者にした。

もちろん、ニュートンもスミスも、この世にいなくなってからのことである。

そのアダム・スミスが生涯に出版したのは、『道徳感情論』(1759年)と、『国富論』(1776年)の、ふたつの大著だけである。

経済学者は、『国富論』しか読まないか、読んだふりをするが、スミスの思考の前提にあるはずの『道徳感情論』を無視するのは、「科学(者)」だからだろう。

ならば、『われ正気か!』も、筆者の著作(つぶやきも含む)を広く読むことが重要なのだとわかる。

近代科学は、たしかにわれわれの生活に多大の影響と恩恵をもたらしたが、昨今では「細かくしすぎ」て、木を見て森を見ずを平然としておこなっても、だれも非難しなくなったのである。

そうしたら、科学が退化をはじめたのだった。

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