「グローバル全体主義」と「反グローバリズム(全体主義)」の目に見えにくい闘いが、徐々に決戦状態になってきている。
歴史家のエマニュエル・トッド氏は、『西洋の敗北』で「狭義の西洋」を、英国、アメリカ、それに彼の母国フランスとに限定して定義している。
むろん、「広義の西洋」とは、大国だけを挙げれば、英国、アメリカ、フランス、イタリア、ドイツ、そして、日本としているが、実質NATOのことである。
英国は1668年の「名誉革命」、アメリカは、1776年の「独立宣言」、そしてフランスは1789年の「革命」をもって、「自由主義的な西洋」ができたので、「狭義」だとこの三カ国になるという。
「フランス革命」の複雑さは、「応仁の乱」どころの比ではない。
そのフランスで、8日、まだ発足して1年も経たない内閣が不信任決議案の可決で崩壊した。
急先鋒となったのは「左派」というが、その左派は、マリーヌ・ル・ペンの国民連合内閣を阻止すべくマクロン大統領のもと、「左派連合」を結成したのではなかったか?
とはいえ、この連合の脆弱性は対ル・ペンだけの「野合」だったので、はなから分裂の必然性が指摘されていた。
それゆえに、今回はマクロン大統領の辞任要求にまでなったのは、ル・ペンに大統領選出馬が停止されている「いま」というタイミングも意識してのことだろう。
つまり、フランスの自由と民主主義は、もうない、のだから、フランス革命はここにきて「失敗」したともいえるし、ジャン・ジャック・ルソーの思想が破たんすべくしていよいよ破たんした、ともいえる。
また、スターマーの英国も、選挙を求める大規模デモがあるように、自由と民主主義はもうなく、政府に反発するネットでの言動は逮捕の対象となって、恐怖国家を具現した。
唯一、アメリカのトランプ政権が踏ん張っているのを、グローバル全体主義者たちは、自由と民主主義が「ない」と攻撃している。
この連中のいう、「多様性」とは、自分たちの都合によるものだけであって、その他の多様性を一切認めないのは、それが伝統的な共産主義(全体主義)だからである。
西洋の一部にある日本は、自民党がグローバル全体主義にシフトして、本家の共産党や公明党が衰退しているようにみえているが、そうではなくて共産主義がひろく波及したための結果なのである。
高齢化による組織の弱体を原因とするのは、まったく本質を突いていない。
そこで、いよいよ大量の大衆インバンドからの「苦情」である、英語が通じない、ことをいいことに、とうとう英語を公用語にする案が登場した。
あの絶対権力を誇示したGHQにすらできなかったことだし、文化勲章の知の巨人、梅棹忠夫すら「ローマ字表記」の提案者であっても実行不可能だったものを。
民族の言語を奪うことの政治的価値は、台湾における日本語廃止(実体は「禁止」)をみればわかる。
残念ながら朝鮮では、ハングルを普及したのが日本だった事実がバレだして、以前のような無茶な言いがかりはすくなくなった。
最初のハングル活字を鋳造したのは、「築地新聞」を発刊した、福沢諭吉の功績であるものを、慶應義塾はなんと学生に教えているのか?
日本語のルーツがいまだにわからないのは、日本独自言語だからという灯台元暗しの論がでてきて、外国産にしたい左翼日本語学者が大抵抗している。
かならずや、中国やら朝鮮やらからの「移民」の言語が影響していることにしないと、いまのポリコレにそぐわない不都合があるからで、曲学阿世は絶えるどころか増殖している。
これに、縄文人のDNAから、あんがいと日本人のオリジナルが縄文人だとハッキリしたので尚更なのである。
もちろん、縄文人ははなから日本列島に生まれた人たちなので、「移民」でないと困る政治的な学者には、政府から覆すための予算がつく。
ときに、英語翻訳家が読む『ネイティブ発想の医学英語論文』なる教科書には、「日本語はハイコンテクストな言語」、「英語はローコンテクストな言語」という解説が載っている。
ようは、日本語は「行間」まで読み込まないと本意が通じず、英語は「文字どおり」でしかない、とある。
ゆえに、英語の論法は論理自体が厳密でないと相手に通じないために、もっとも基本の「文法」もそういった厳密さの構造になっているのである。
いまや日本語はギリシャ語やアラビア語を超えて、世界最難解言語に指定されている。
これをもって、サブカルをきっかけにしてやってきた「日本語学習者」の、世界最高難易度に挑む気概が健気なのである。
そして、このひとたちが気づく「日本語がハイコンテクストな言語」だから難解なのだというポイントが、かえって母国語と母国文化の薄っぺらさに思いを馳せるようになるのである。
行間を読む文化がないおおくの言語の話者が、いきなり行間を読む、なんてことはできない。
それがまた、会話における「空気」となるのが日本語なのだ。
そしてその空気が、組織における決定を左右するのが、日本という国なのである。
そうやってかんがえれば、日本を英語公用語の国に「改造する」ことの邪悪は、小数派ながら外国人の日本語学習者の反感も買うであろう。
人間は、思考を言語でする。
言語をもたない動物が、思考できないのはこのためである。
さいきんでは、頭で黙して思考するときに、その言語の「声」を耳で聞いていることがわかってきた。
聴覚を失っても、思考の声は耳から聞こえているという。
その思考の言語が、何語なのか?でアプローチから結論も変わる。
言語には、歴史的な文化性もしっかり含まれているからである。
英語公用語の狙いはここにある。
日本(人)を滅亡させる、ということなのである。