祝!?英語力世界ランキング最下位92位

13日、語学教育などで世界最大級の教育機関イー・エフ・エデュケーション・ファースト(本部スイス)が発表した、英語力世界ランキングで、わが国は調査対象のなかで見事「最下位の92位」の栄誉を獲得したことがわかった。

本稿では、このことの意味することを、二方面から妄想してみたい。

まずは「残念!」という立場からだ。
これは、まったく常識的なので、あまり愉快なはなしではない。
だが、いまでは小学生からとなった「英語の授業」があるのに、どうしてこうなるのか?という問題である。

はたして、世の英語教師はどんな反省をするのか?

おそらく、生徒の出来の悪さは生徒のせいであるということにするだけだし、どんな調査方法で、自身だと何点になってどういう評価になるかの検証もしないのだろう。
それが、結局、こういう結果になっている理由だからである。

すると「成功!」という立場つまり、わざと英語ができないように、あるいは、もっといえば、子供が英語を嫌いになるように仕向けていることの「成果」ともいえるのではないか?と頭に浮かぶ。

この点では「祝!」ということになる。

おおくのひとを英語嫌いにさせることで、教材やら教室やら、さまざまなビジネスが容易にできるのは、なかなかに「おいしい」ことである。
なお、この楽していい思いをとげることを「おいしい」といいだしたのは、バブル期のお笑い番組でのことだった。

これを観て育った子供は、もう管理職だろうけど、世の中に「おいしいことなんぞは存在しない」ことをまだ学んでいない可能性がある。
それが、世界的に経済成長が止まったことの一因でもあると、気づかないのは、若い脳への刷りこみというものの恐ろしさなのだ。

なのに、若い脳に「英語」は刷りこみができない。

これには学校教育での「英語習得メソッド」が、存在しないという、これまたビジネス上のメリットがある。
各教科での教育方法(教授法)を独占している、文部科学省によって、80年もの期間、絶対的に英語嫌いを育成するのはどのような国家目標に基づくものなのか?

ひとつの妄想は、文科省の英語教育担当者に歴代、「反米思想」が引き継がれているという説で、さらにもうひとつは、日本人の飼い主たるアメリカ人と意思疎通できる「エリート」は、少数で十分だから、この立場を独占し続けるため、という説である。

わたしは後者をにらんでいるが、これでは「与える側」だけからの一方通行の議論で終わってしまう。
「与えられる側」としては、文化的にどうしても合わない、ということがあるのではないのか?という説がかんがえられる。

人間は母語で思考する動物なので、母語の言語能力を失うことは致命的だ。

こうした点で、人間以外の動物に「思考力がない」のは、言語がないからであるといえる。
なので、ペットにしても人間がなんらかの条件付けをおこなって躾けるのは、その動物の本能と感情のコントロールというポイントでの方法だけになるのである。

むかしは、フランス人を相手にしたら、たとえ本人が英語を解していても、けっしてそんな素振りも見せずに「フランス語だけ」しか使わないというのがふつうだったけど、いまは、フランス人もずいぶんと丸くなって、ふつうに英語を話してくる。

あの、自意識過剰でツンツンした誇り高きフランス人は、絶滅したのか?

かつては、フランス語が発音の美しさやらなにやらで、「世界一」を自負していたし、フランス料理だって言葉とならぶ「フランス文化の象徴」としての誇りと自慢があったものだ。
それが、「ヌーベルキュイジーヌ」なる、ポストモダン思想に破壊された料理に転換されて、不味いが高級となり、さらに不味いが健康志向だと思いこまされた。

悪い意味での思い上がり、そのものである。

それだから、パリのレストランは自滅して、わざわざ高速鉄道でベルギーにまでいかないと「美味いフランス料理」を食べることができなくなって久しい。

いまのパリのレストランは、冷凍食品の「解凍屋」なのである。

これを、「国際化」というのなら、フランス人の回顧派(具体的には「ド・ゴール派」)からしたら、グローバル全体主義なんて糞食らえ!というのは、じゅうぶんに理解できる。

そのド・ゴールを暗殺しようという設定のサスペンスが、『ジャッカルの日』だった。

そんななか、フランスのマクロン政権がアメリカ民主党やイギリス労働党の全体主義にはまり込んで、政治資金問題からル・ペンの被選挙権剥奪の可能性が政治問題化している。
ようは、大統領選挙での立候補資格を与えないという、どこかでみた光景のディジャブになっている。

それもこれも、フランス人が英語を話すようになったからだと、わたしは妄想するのである。

とはいえ、英語とはフランス語とケルト語のまじった派生なので、元はおなじだから、日本人が総じて英語を解するようになったらどうなる?とは、ずいぶんとちがうイメージだ。

グローバル全体主義は、英語圏の有名大学に蔓延しているので、文学系とくに歴史については、かえって活動家レベルにまで洗脳されてしまうから、「留学」するなら理系に限る状態になった。

それが証拠が、自民党などの国会議員の経歴にある、海外有名大学卒の学歴が、「やばさ」の烙印になっているのである。
高市早苗、河野太郎、小泉進次郎、それに上川陽子など、そら恐ろしい思想(グローバル全体主義:共産主義)の持ち主たちは、みな「アメリカ仕込み」という共通がある。

これらが恐ろしいのは、自分が「共産主義に染まっている」ことすら自覚できていないほど、アメリカ民主党(トロツキー派)信奉者という単細胞なのだ。

ゆえに、レーニンの「役に立つ白痴」の生きたサンプルとなっている。

すると、なんといわれようが「英語ができない」のは、日本人の定義たる、「日本に住んでいて日本語を話す」に合致する。
むしろ、グローバル時代の日本人の定義には、「日本に住んでいて日本語だけを話すが、英語はしらない」と書き換えた方がよいのではないのか?

すると、理系でもないのにわざわざ大枚払って外国の大学にいく価値がないと、いまでもいえることが、おおくの日本人にも理解されることだろう。
とはいえ、理系でないなら国内の大学も汚染されているので、サッサと進路変更をするか、勉強をやり直すべきは物理・化学で、その基礎に「論理学としての数学」がある。

英語力世界最低の評価とは、ここは日本なのだという証拠(祝!)なのである。

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