会田雄次の名著『アーロン収容所』に、日本人には見なれた「禁止」の看板・張り紙のはなしがでてくる。
1916年(大正5年)生まれの会田雄次氏が、徴兵で兵隊になったのは1943年(昭和18年)のことだった。
つまり、27歳で新兵(歩兵一等兵)になったのである。
1942年に京都帝大の副手と龍谷大学の講師になったばかりだから、学徒出陣の「学徒」ではないために、学徒で出陣(「少尉」任官)した年下の者たちが上官だった。
ちなみにその前の1940年に京都帝大を卒業し同年、同大大学院に進学した以降のことである。
なお、「文学博士」の学位を得たのは、戦後、1962年、「新制の京都大学」からの授与で、論文は『ルネサンスの美術と社会』だった。
会田がみて育った「禁止」は、日本の伝統なのかどうかはしらないが、21世紀のいまでもいたるところで目にする。
たとえば、客商売の最高峰と自負する高級ホテルや豪華クルーズ船とかでも見かけると、その組織の語彙力とこれをふつうだとすることの奥にある安易な思考を疑うのだけれども、同時に、豪奢のメッキが剥がれた発見の瞬間として、わたしはなんだか心躍るのである。
この夏に、東京新宿の老舗デパート入口に、中国語だけで表現された「禁止」の張り紙が、特定国人への差別だとして指摘され、このデパートがすぐさま撤去したのが日本語媒体での話題になったのである。
はたして、撮影されてデジタル・タトゥーになっているそのものは、いまようのスマホのカメラアプリで自動翻訳されてはじめて意味が分かる「禁止文」であった。
つまり、一般の日本人には理解不能で、それが禁止文であることすらぱっと見でわからない表示なのだ。
日本人一般からしたらその内容の、注意喚起の正当性から、一部からの批判の声ですぐさま撤去したデパート側の軽さが、かえって批判の対象となる椿事となったのである。
そんなかんたんに撤去するなら、事前にどんな「効果」を考慮したのか?という、予測問題を検討しなかったことが指摘されるはめになってしまった。
やはり、かんがえが薄いことからのメッキが剥がれた発見を多数に体験させたこととなった。
一方で、たとえば、山中の狭い道で、小さな赤い鳥居が並んでいるのは、たいがいが「不法投棄禁止」の意味だとわかるし、繁華街の道端なら、むかし電信柱にたいがい貼られていた「立ち小便するな」の意味がある。
そういえば、「立ち小便」が軽犯罪になったのはわたしが子供の頃だった。
「鳥居」という記号の意味が瞬時に理解できる日本人ばかりならよかったが、さいきんではこれを無視した宗教の外国人がやらかすと話題になっている。
ために、よくされてしまう場所での防止策として、監視カメラとライトの点灯やらの方策があるそうな。
外国では、よく反射する塗装など攻撃的な方法もあるのは、「肉食の思想」だからだろう。
一方で、日本の神社が外国に進出して、神前式かつ和装での結婚式が流行っているとも聞く。
そのために、着物レンタル&着付け、それに日本髪結サービスも用意されているし、参列者には事前にどんな意味の儀式なのかについてのレクチャーがあって、これがまた教養あるひとには特に人気だという。
どこまでの説明かはしらないが、イザナギ・イザナミの話をするのだろうか?
そんなわけで、日本には、「禁止」の文字をあちらこちらでみかける文化がある、すなわち「禁止の国」なのである。
これは、幼年期からの訓練もある、奴隷国家としての日本独特なのだ。
しかしていまでは、家畜国家としての「禁止」を政府が推進する状態になった。
24日、アルゼンチンのミレイ大統領が国連総会で演説した。
それは、22日に採択された「未来契約」に関して、社会主義だという反対・糾弾演説であり、国連総会で堂々と国連という官僚組織を糾弾したのである。
まさに、「王様は裸だ!」との指摘は痛快である。
だが、岸田首相が現地で「美辞麗句」、「巧言令色鮮なし仁」そのもののえらく軽い内容の演説をし、さらに自民党総裁選で候補者のだれもがこの演説と採決を話題にもしないわが国は、やっぱり「禁止の国」だった。
岸田派の投票が決めてになって勝利した石破氏は、すさまじい勢いで過去からの慣習を「禁止の国」に転換させるのは確実だ。
それを「保守」というのは、もう子供でも笑い出す破綻であって、カマラ・ハリスの支離滅裂を嗤えない。