わが国でインターネットが一般に普及をはじめたのは、だいたい1995年(平成7年)頃からだった。
辞書的には、1984年(昭和59年)だとされているけど。
つまり、「昭和時代」に、インターネットは事実上ないも同然だった。
1985年にエジプトから帰国して、大学に4年生で復学し、早々に「卒論」に取り組んだけど、「(爆発的に)普及している」という経済新聞やらの記事に騙されたわたしは、秋葉原で「型落ち」のワープロをなけなしの30万円で買ったのを覚えている。
フロッピーはまだ「5インチ・ディスク」で、付属で「専用」のプリンターはインクがテープ転写式だったために、原稿用紙に印字を合わせる作業だけで、ずいぶんな印刷コストがかかった。
カートリッジ式の印字テープは、一回コッキリの使い捨て方式だったからである。
しかも、このワープロ「端末」には、通信機能がなかった。
逆に、「通信機能」があったところで、それがどんなものか?さえしらない時代だった。
それから翌年、ホテルに入社して、客室勤務になったときに目撃した外国人客は、客室の電話から「音声カプラー」で本国と通信していた時代である。
生まれて初めて買ったパソコンは、モノクロの墓石型、「Macintosh SE30」だった。
それでもまだ、自宅の電話回線(ダイヤル式)に接続することはなかった。
90年代後半にISDN回線が一般家庭に普及してから、ようやく回線接続して、なんとか頑張ったのが「パソコン通信」だったのである。
しかし、アマチュア無線の有線版のような、見知らぬひとと文字でやり取りすることがなんとなく不気味で、熱心さには欠けていた。
「インターネット」で、ブラウザ検索ができてはじめてその便利さを実感した。
そんなわけで、わたしが最初に手にした携帯端末は、10円だった「PHS」で、いわゆる「ガラケー」という言葉さえまだなかった時代のことで、小さくて軽くいのが重宝した。
ちなみに、女子高生の必需品だった「ポケベル」での文字通信は、わたしが高校を卒業してからのことで、就職したホテルでは業務用のローカル端末として使われていた。
ここで素朴な疑問として、昭和時代の生産性の方が今よりも高かったのはなぜか?が気になるのである。
人間の基本的な知識ベースが低下しているからではないのか?という勝手な解釈をしている。
それが「認知能力」につながるとすれば、当然に生産性は低下する。
もちろん、この認知能力を「読解力」と言い換えることもできるだろう。
もっと言えば、日本人間でも日本語が通じない、というコミュニケーションに関わる重大事だ。
細かくいえば、「語彙力」となるのだが、もしや動物のレベルに近づくようなことになっていないか?
普段の会話が、「ゲームプレイ」の状態に落ちているので、長文が理解できない。
受験勉強的になった学校の授業や塾での、「国語」の授業がいまどんな状況なのかしらないが、長文読解の訓練としてなにをやっているのか?
むかしは、難解な「超・悪文」が教科書に載っていた。
暗誦に値する「名文(章)」に、教科書で触れることは滅多になかった。
ハンナ・アーレントがゲーテの『ファウスト』を暗誦していたことは、前に書いた。
日本の武士の子なら、「四書五経」の暗誦は当然だったし、町人だって「論語」の暗誦をしていたのが、完全に退化したのである。
ユダヤ人(「ユダヤ教徒」のこと)が、いまでも子供に「トーラー(『旧約聖書』の「モーゼ五書」のこと)」を暗誦させているし、アラブ人なら「コーラン」を暗誦させている。
これが、どれほどの効果をもたらすか?は、強すぎて紛争の種になっているほどなのだ。
すると、日本の衰退ばかりか、ヨーロッパの衰退は、キリスト教における『新約聖書』のたとえば「黙示録」や「詩篇」の暗誦すら途絶えたことにあるのではないか?
アメリカ共和党トランプ派という、清教徒の流れをくむひとたちの篤い「信仰」は、この意味で興味深い。
トランプ政権2.0が目指す、教育改革は、教育省の廃止が目的なのではなく、各州の権限に教育行政を引き渡す事での、教育水準の底上げにあるという。
アメリカ人の認知レベルの低下に、トランプ政権2.0は危機感を抱いていると説明されるが、ことの根幹にキリスト教(プロテスタント)信仰への回帰があるとかんがえるべきだろう。
一方、わが国は、アメリカ民主党が仕切ったGHQの呪縛から抜ける努力ではなく、文科省の権益と日教組の権益維持とが一致するために、国民の認知力という視点からすれば、「悪化」しかない方策を推進している有様なのである。
いかも、学校はもはや自由設置ができず、文科省の認可を要することは、「加計学園問題」であからさまになったのに、マスコミはこれを別のスキャンダルにすり替えた。
黒柳徹子原作の『窓際のトットちゃん』が、昨年、国際映画賞を受賞して話題になったが、彼女が通った「自由学園」を、いま設立しようとしても認可が降りるはずもないことを、現代日本人はどう考えるのか?が抜け落ちている。
つまり、この物語の舞台である学校は、完全に「ファンタジー」となったのである。
それもこれも、通信端末は普及したが、「考える必要がない」までに飼い慣らされていることを感じもしないことが、重大な事態だと認知が行きつかないし、そんな風に考えることすら「させない工夫」に満ちているのである。
これを、奴隷化という。
そうやって意識を少しだけでも働かせれば、奴隷になるための教育のゴールが「受験」制度であって、「偏差値教育」がそれ、なのである。
「偏差値の高い学校=優秀な生徒が集まる」という仮説を、本当に信じるものがどれほどいるのかしらないが、いまや「信じるもが救われる」とはいえ「邪教」の状態になっている。
その信じ込ませるためのツール(道具)が、スマホなのである。
なるほど、生産性が上がらないばかりか落ちているから、賃金も上がらばかりか落ちているのである。