昨日から正月休みのひとはおおいのであろう。
1年どころか、日常をあらためて反省する意味で、よくいわれる「組織を中から変革できるか?」についてかんがえてみたい。
結論から先に書けば、「トップ」がやること、あるは「トップ次第」である。
つまり、組織の中にいる一般職や中間管理職には不可能とはいわないが、相応にハードルが高いといえるし、「トップ」の能力を組織は超えない、名言の理由でもある。
逆に、トップを無視して、現場が組織を支えている例は山ほどあるが、肝心要の決定ができないので、いずれ限界点を迎える当然があってそれには組織崩壊という現象がともなうものだ。
40年前、鉄壁と思われていたソ連と東欧衛星国の体制崩壊は、歴史的な巨大さだったが誰にもとめることができないものだった。
人心が離れるからである。
たとえば、李登輝こと岩里政男氏は、中国国民党の副主席として長年の間、トップである蒋経国(蒋介石の息子)総統を支える役割を負っていたが、蒋経国亡き後になって初めて「反国民党」の本音を語り、ついには自らの国民党政権での大変革を行ったものの、結局は外に出ることとなった。
トップではないうちは、偉大な「スリーパー」だったのである。
だが、そうやって、偉大なる李登輝を追い出した国民党は、元の木阿弥になっていまにいたる。
これは、トップを無視できる現場の完成された利権の巨大さが動じないためであろう。
この点で、ジョー・バイデンはバラク・オバマの傀儡として、ずっとトップではなく、民主党の幹部とオバマの命に従いながら、その報酬として私腹を肥やすことを容認されていたにちがいない。
この連中の犯罪が、トランプ政権2.0によって明かされて、いよいよ歴史に残る大量逮捕・起訴・有罪の初期段階にきている。
アメリカのトップが、あたかも韓国のお家芸のごとく裁かれる時代になった。
一方で、プーチンとメドヴェージェフの関係も「しかり」ではあるが、李登輝亡き後の世界で「哲人」政治家は、プーチンひとりだけになった皮肉が歴史の転換点をつくっていることはまちがいない。
ワシントン住人たる、伊藤貫氏によれば、プーチンは400から500年にひとりの「逸材」との評価なのだ。
なので、世界の問題は、プーチン「後」のロシアを誰が牽引するのか?にかかっている。
それにしても、李登輝のような「哲人」といわれた傑出した人物でさえも、そして、そんな人物がトップになっても、「国民党」なる一党独裁体制の大組織を変革することは困難なのだ。
シンガポールをつくりあげたリ−・クアンユーは超優秀ではあったが、やっぱり一党独裁体制を築いたので、豊かな北朝鮮=自由なきシンガポール、となっている。
EUのフォン・デア・ライエンが、あからさまに目指している全体主義化に、とうとうアメリカが「価値観をおなじくしない」と宣言して、「検閲」責任者たち5人をアメリカ入国禁止にしたのは、ヨーロッパ一般人への「クリスマス・プレゼント」になったとベートーベンの第九のように「歓喜」の話題になった。
マルコ・ルビオ国務長官は、今回の措置は網羅的ではない、と発言したので、もっと多数の制裁をすべく準備中だと示唆している。
言論統制を推進する自民党の誰か?もアメリカ入国禁止になるやもしれぬと期待している。
農家へのEUの攻撃に、農業が盛んなフランス・ムーズ県やらの役所から「EU旗」が撤去されるムーヴが起きて、どうやら全ヨーロッパに拡大しているという。
足元の地方首長や議会が、「反EU」で旗を撤去しないと、選挙に勝てない、地殻変動が起きているのではないか?とおもわれる。
これに、大統領やら首相職にある国のトップが気づかないのは、プーチン氏が皮肉ったごとく、「子豚ども」なる歴史的マヌケの複数名がいる。
そのプーチン氏は19日、年末恒例の、4時間半の休憩なし連続テレビ生放送で国民対話を行って「実力」を世界にみせつけている。
昨今の国内例なら、高市自民党総裁が総理大臣として推進すると明言した、「国旗損壊罪の立法」に、なんと自民党の地方議員たちが堂々と反対を表明する、組織論としてはあってはならない事態が起きている。
まるで国民党のようなのである。
ここで、誤解のないようにしたいのは、「反対者を口止めしろ」といいたいのではない。
なんであれ「法案」を通す、というトップの発言が、なんと組織内の承認がないままである可能性の驚きなのである。
これを、トップの総裁たる人物が一存でなにがなんでも「通す」としたら、まさに「独裁」となるからである。
高市氏は、安倍政権時に政調会長を経験している。
すると、当該法案についての党内手続はどうなっているのか?という問題と、「国」と「地方」における、「政党としてのガバナンス」というふたつの問題が生じるのである。
前者は「政調会」での決定(基本的に全会一致)が必要だし、後者は、「政党の政治主張の一貫性」に対する曖昧さがあると指摘できる。
政調会での決定は、そのまま内閣に伝達されるので、内閣は行政におけるボードとしてこれを実行に移すのが仕組みだ。
つまり、政策決定において政調会は内閣の上に存在する建て付けになっている。
一方、政党の政治主張の一貫性が曖昧なのは、自民党は一般に「自分党」と揶揄されるがごとく、議員は自身の「後援会」組織によって支えられていて、地方議員にいたっては国会議員で構成される党本部とのちがいがあっても、「自由」という名目の下に、あんがいと好き勝手ができるようになっているからだ。
これに、明治からの藩閥体制の延長で、「都道府県連」というそれぞれの行政区画別に現職の国会議員団が会長を選出し、その都道府県内の議員を引き連れる体制としているが、存立理由は「選挙」のためのもので、選挙区毎の国会議員⇒都道府県議会議員⇒市区町村議会議員というピラミッド構造ばりの親分子分関係が、そのまま選挙での活動力となっている。
つまり、個々の議員の後援会自体がヒエラルキーを構成しているのである。
すると、自民党という政党における「組織」とは、上にいう後援会組織のことであって、党本部との統一的政治主張においての調製をになう会議体もないことがわかる。
「勝手連」なのだ。
よくもこんな政党を「政党扱い」してきたものだが、こうしてみると、自民党は政党とは呼べないヘンな集団である。
30年以上の悪政によって国家が衰退する局面になって、ようやく顕在化してきた。
この組織とも呼べない政党を「中から変革する」のは、不可能であることがわかる。
組織ではないからである。
ならばいかなる方法があるのかといえば、選挙で敗退させて、政界から追放するに尽きるのである。
これがまた、来年の希望の光になっている。

