1日、「第102代」の内閣総理大臣として、石破茂氏が就任した。
なにも石破氏にだけこの件で文句をつける筋合いではないが、「主権喪失」という厳正なる事実をもってかんがえたら、勘定の方法がおかしくないか?とおもうのである。
あくまでも「数え方」として、初代の伊藤博文(1885年12月22日)に文句はない。
すると、第42代の鈴木貫太郎までで、いったん「終わり」にしないといけなくないか?
この内閣が、『ポツダム宣言』を受諾したからである。
しかして、鈴木貫太郎内閣は、日本の幸福とともに辞職して、「皇族内閣」として、東久邇宮稔彦親王が組閣した。
鈴木内閣が総辞職した同日、1945(昭和20年)年8月17日のことである。
伊藤博文が就任して、60年弱のことであった。
それで、わが国が主権を回復するのは、1952年(昭和27年)4月28日である。
だから、主権がなかった期間=すなわち占領期を、「歴代」として勘定していいものか?という問題がある。
具体的には、東久邇宮内閣 ➡︎ 幣原喜重郎 ➡︎ 吉田茂 ➡︎ 片山哲 ➡︎ 芦田均 ➡︎ (第三次)吉田茂、までで、正確には最後の「第三次吉田改造内閣」が主権回復の日をまたぐのである。
ようはこの期間は国会があってもなくても、「連合国のしもべ」であった。
すると、第三次吉田内閣からそのまま第5次吉田内閣と続くので、独立後の戦後から勘定を始めると、吉田茂がいきなり初代から3代までとなる。
それで、次が、鳩山一郎でこれが第三次まである。
この二人だけで、もう6代を消化して、その次の7代目が短命だった、石橋湛山内閣で、8代目に岸信介が2次までやる。
つまり、通しでいう「歴代」の49代目が吉田茂の戦後初代とすればいい。
なので、石破氏は独立後72年目の、戦後53代目の内閣首班だということになる。
ところで、敗戦でやり手がなくなって不可侵のはずの皇族から首相になった東久邇宮は、たった54日にして辞職したのだが、その理由が、「GHQの指令拒否」という心意気だったことが忘れられている。
その指令とは、「自由の指令」というもので、GHQ民政局のホイットニー少将とケーディス大佐が仕組んだ、「左傾化」案のことである。
浅はかにも、国家主義的思想を社会主義で中和しようとしたものだった。
これが後の巻き戻し、すなわち、「レッドパージ」になって、マッチポンプのような一人相撲からの不可解な事件が相次ぐ。
まさに、権力の横暴による謀略を必要とする事態にまで発展・悪化することになって、罪なき一般の日本人が犠牲になったのである。
こうしたヘンテコな「中和策」の申し子が、石破氏を担ぐ自民党の多数なのである。
つまるところ、GHQによって育てられた、「新しい日本人」なのである。
だから、外国からの移民が「新しい日本人」だというのは、対象範囲が狭すぎる。
東久邇内閣は、昭和天皇の終戦の詔勅(玉音放送)にあった、「平和的新日本を建設して人類の文化に貢献せしむことを欲し」を、国家目標とした。
じつは、9月23日に発表された、「降伏後に於ける米国の初期の対日方針」には、「米国の目的を支持すべき平和的かつ責任ある政府を究極に於いて樹立すること」が示されている。
歴史学者のジョン・ダワーは「傲慢な理想主義を顕著に表している」と評した。
さてはこの「新日本」が、とんでもない解釈になっているのが、現代日本なのであって、いまなお、「米国(民主党)の目的」のためにあるのが自公政権なのだ。
だから、人類文化の破壊に貢献せしむことばかりを、国連の命に従って盲従することができるのである。
納得。