自己防衛のための官僚暴走

高度成長は日本の優秀な(経済)官僚のおかげ、という勘違いが宣伝されたのは、国内では城山三郎なるフィクション作家による『官僚たちの夏』がプロパガンダ機関たるNHKのドラマにもなって国民の脳に焼き付けた。

一方、海外でも、さまざまな経済レポートで間違った「日本官僚の優秀さ」が喧伝され、阿呆な政治家を刺激して、カーター大統領はアメリカ経済の衰退に、猟官制アメリカ官僚に原因があると信じ込んで、日本よりも強力な「終身官僚制(SES)」を創設したし、ヨーロッパも負けじと官僚からなる「EU委員会」に、域内の全権を付託することを選んだのである。

このことの共通点は、国家の役割が国民経済に絶対的な影響を及ぼす、という社会主義計画経済の本質があることにある。
つまり、当時の世界三極は、どれも社会主義を自ら選んだのである。

いまいわれている、「反グローバリズムの闘い」の対象となる「グローバル全体主義」とは、きわめて単純にいえば、「社会主義計画経済」への反発に他ならない。
ここで、わざと用語をややこしくしたのは、「新自由主義」で、本来ならば社会主義計画経済を敵視するはずのものが、一体化して語られるというロジックの変換があったことだ。

とたえば、ミレイ氏のアルゼンチンは、ハイエクなどの教科書通りの「新自由主義」をもって国家運営にあたっているが、これと、グローバル全体主義者の竹中平蔵がいう「新自由主義」は180°別物である。

ようは、ハイエクなどのオーストリア(ウィーン)学派がいう、「新自由主義」とは、アダム・スミスが提唱した「古典派(自由主義)」からのさらなる脱皮を示したものであったのに、戦争屋=ネオコンを通じて、真逆の意味に変換されてしまったのである。

なんにせよ、選挙がある民主体制における官僚とは、事務員にすぎないのであって、本来なら政策を立案する立場に置いてはならないはずが、議員におけるグレシャムの法則(良貨は悪貨に駆逐される)が作用して、質の高い議員が、無能だが選挙に当選する多数に追いやられてしまって、楽ちんな官僚依存になってしまったのである。

ところが、官僚も国民の一部なので、仕事を離れたら自分らにも一般人としての生活がある。

そこで、政治家が示す「悪辣」に、官僚本来の無責任さに対する国民からの責任追及の指摘を畏れることも手伝って、異様な暴走がはじまっているのである。

それが、移民の追い出し、である。

高市政権の唯一褒められる点は、「大臣指示書(ミッション)」の公開であると書いた。
これを読めば、法務大臣に対しても、厚生労働大臣に対しても、「移民促進」が内閣総理大臣からの指示なのである。

しかし、官僚たちは、これと真逆をやりだしている。

たとえば、10月16日(高市政権発足は同月21日)から、いわゆる「経営管理ビザ」(2015年第三次安倍内閣から導入)の厳格適用が開始され、不正に日本に入国した外国人の継続滞在が困難になったのだが、この規制強化は今夏(石破政権下)に発表されていたもので、石破政権も外国人受け入れには積極的だったことからすると「おかしい」のである。

ただし、このビザは家族の呼び寄せも可能とはいえ、10年後には「永住権の取得が可能」という一大特典がついており、そのための「厳格適用」だという理屈が表向きなのだろう。

今年がちょうど、10年目になるからである。

ようは、いまの外国人問題の原因に、安倍内閣があったことは、日本人はしっていていい。

それで、10月15日までは、国内預金残高が見せ金可能で500万円あることが条件だったけれど、16日以降は最低でも3000万円以上の残高が必要とされているし、ペーパーカンパニーも見破られ、会社所在地の実態も調査される。
さらに、日本人従業員を雇用していることも条件なのである。

現実に現場を動かすためには、本省で決めたから、だけというわけにはいかない。
決めた後の「事務要領」を決めて、それを現場で動かせるようにしないとできないものだ。
つまり、相当の時間をかけて10月16日を迎えているのである。

しかし、この動きに、石破政権も、高市政権も、まったくの「無能ぶり」を発揮しているのである。

このことから、優秀ではないが、官僚によってこの国の運営は「独裁的」にされていることがわかる。
たまたま今回の措置が、国民多数の支持を受けているので、かえって政権側も手出しができない、のではなく、最初からぜんぜん手出しができないのである。

このことを、「政治家と官僚間の翻訳者が必要」だと正直に語るのが、参政党に電撃入党した豊田真由子元衆議院議員・元厚生労働省官僚で、自身の党内での役割について説明している。

どちらの立場もしっているからの言葉であるが、官僚から政治家になる道筋はワンウェイで逆はないため、過去の官僚出身政治家は、官界との癒着に走ることでの権力追及をしたと予想できるのである。

なので、特異な形で政治家を辞めた豊田氏の参政党政調会長補佐としての政党内とはいえ政策担当官僚への回帰の意義はおおきい。
なぜなら、近代政党のあるべき姿(党内にシンクタンクがある)に近づいたからである。

これからも、「辞め官僚」のリクルートが続くと考えられるのは、政策面でのぶ厚い政党構築に不可欠だからであるし、旧来のやり方の否定がそこにあることの重い意義なのである。


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