トランプ大統領が経済政策の柱にあげている「アメリカを暗号通過大国にする」一方で、FRBによる「中央銀行デジタル通貨発行(CBDC:Central Bank Digital Currency)禁止」が打ち出されたから、俄然、1976年に唱えたハイエクの『貨幣発行自由化論』に注目があつまっている。
もちろん、日銀もずっと研究しているものだった。
トランプ大統領と共和党トランプ派が推しているのは、そもそも中央銀行たる「FRB廃止」だから、これが具体化するほどに、世界的な議論となり、日銀の存続問題も無視できなくなる必然がある。
いまようの流行言葉でいえば、「中央銀行の持続可能性」に関しての疑問、ということになる。
デジタル通貨といえば、すでに流通している「デジタル人民元」が比較対照としての話題になるものの、残念ながらいわれるほどこの議論にインパクトがないのは、人民元そのものが「ドルペッグ制」の通貨だからで、あたかも人民元がそれだけの単独で世界に流通・信用を受けているものではないからだ。
つまるところ、「通貨バスケット」としてかんがえれば、ドルと人民元はおなじくくりの扱いにある。
しかも、人民元の価値を決めるドルとの「相場」は、中国政府が完全に管理している。
これは、「資本(移動)の自由化」を絶対に許さない基本方針があるからで、もしも自由化したらドルへの交換が無限大=経済崩壊となると当局が懸念するほど、人民に人民元の信用がないからである。
それもこれも、中国経済が発展すれば必ず民主化が浸透する、という「説」による「笛の合図」で西側からの巨大投資があったことで隠蔽されているのである。
いまさらだが、こんなインチキな説を唱えたのは誰だっけ?という問題が、アメリカの学会に深く横たわっているのである。
それが、シーモア・M・リプセットによる、『政治のなかの人間』で、経済が発展すると民主化しやすいという、「因⇒果」を「果⇒因」にしたトンデモ大学者の発想にあった。
ちなみに、「量子論」における「量子もつれ状態」では、時間を遡って結果を変えてしまうことが確認されている。
人間の「脳」は、量子コンピューターであることが解明されてきているので、もしや、リプセットの説は「あり得る」になるのか?
さて、ケインズとの経済論争に「破れた」と評価されているハイエクではあるが、彼は経済学から離れて、法哲学の世界に向かったのでノーベル経済学賞を受賞したときは、本人も驚いたという。
そのハイエクは、自由主義の権化でもある。
ケインズとは罵り合いの「論争」だったが、個人的な交遊は生涯続いていた。
また、ハイエクが『隷属(隷従)への道』を発表すると、ケインズはこの書籍を絶賛している。
しかし、その「自由論」は、「自律社会」を最善とするから、社会主義思想に浸かりきった21世紀の現代の人間には中途半端な「論」にみえる。
なぜなら、「結論」とか、「計画性」という概念すらないからだ。
もちろん、すべての根拠に「自由な自律重視」があるためで、計画しないための計画が唱えられている。
あたかも、コップの中の水にインクを垂らして観察できる、「ブラウン運動」の分子のように、自由運動をする個人が作り出す自由社会は、自律社会なので、これをむやみに撹拌したりしても、その努力は報われないというのと似ている。
もちろん、ハイエクは「自由放任主義」を認めてはいない。
まったく、道徳を重視したアダム・スミスの『道徳感情論』を、洗煉させたのがハイエクなのだとわたしはかんがえている。
おそらく、アイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』も、アダム・スミスとハイエクの影響を強く受けているだろう。
ようは、自律社会は、わざわざ「持続可能性」について計画なぞしない。
する必要もないのは、自律社会ならば、勝手気ままに起きる「紆余曲折」ではなく、意識的な「試行錯誤」で、「よりよい状態」を求めるからである。
では、より良い状態とはなにか?
それこそが、伝統の叡智による道徳社会の維持を前提とした発展のことなのである。
ただし、リバタリアニズムも、ついには、グローバル全体主義に行くつく可能性があるとの警告がある。
だから、なにがなんでも古いものなら全部いい、とはならない。
各国がそれぞれに、なにを取捨選択するのか?こそが、自律社会における試行錯誤なのだ。
しかし、古いものにいいのもがたくさんあるのも、歴史の波に洗われてきたからこそで、それをふつう「古典」と呼んでいる。
「古典」を無視した、持続可能性こそ、無謀というものだということなのである。