ローマ教皇の葬儀に参列したトランプ大統領が、例によってマスコミにたたかれている。
「黒」ではなく、「濃い青」のスーツに青いネクタイを着用していたことが、ローマ教会が定める葬儀のための「ドレスコード」に抵触することを根拠としているらしい。
が、今回のご指定は、「適切な服装」であった。
ところで、ネットでは、報道各社が出したというトランプ大統領を中心にした「全体写真」を、ズームアウトしてみると、やや後方に元職にしてカソリックのバイデンが「青い」スーツを着て立っているし、はたまた、英国のウィリアム王太子も「青い」スーツ姿でいらっしゃる。
よくみれば、「青」が目立つばかりか、「黒」が定番のはずの女性でも、インド風に青い布を肩から巻いているひともいた。
つまるところ、例によっての、フェイクニュースである。
日本にも、「冠位十二階」があって、それぞれの「位階」を「色」で表すことをしていたし、このやり方は、日本の仏教界でもいまだに健在で、江戸期には「紫衣事件」なる天皇退位に至るまでにこじれたこともある。
彼のキリスト教文化圏では、「青」は、「聖母マリア」を象徴する色とされている。
たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵画『受胎告知』では、聖母マリアは青色のローブをまとっている。
意味は、「純潔」、「信仰」なのである。
このローブの下の衣服は「赤」で、「天の愛情」を表すといわれている。
ちなみに、教皇が被る帽子(「ズケット」、「カロッタ」という)は「白」だが、枢機卿は「赤」、司教は「赤紫」、大修道院長は「黒」と、日本の官位のように決まっているが、その下の、司祭や神父は帽子を被ることもない。
また、ミサで着用する「祭服」についてとか、「典礼色」については、ネットで「聖書と典礼」を調べるとある。
だから、とりようによっては「黒」よりも、教皇への敬意という点でマリアとの一体感を示すのは、非難されるようなものではない。
だからか、騒いでいるのはマスコミで、教皇庁はコメントしていない。
さてそれで、日本語になった記事の前提に、暗黙の「日本的礼服基準」があることに気づく。
いわゆる「スーツ」を販売する全国チェーン的ないいかたをすれば、「礼服」のことで、むかしならちゃんと「略式礼装」といっていたものから「礼」だけ残して「服」を付けたものだ。
これが、いわゆる簡易的な「ユニフォーム」として定着したのである。
英語辞書で「uniform」を引けば、同形の、同型の、そろいの、一様な、均一の、という意味がでてくる。
日本人がすぐさま連想する、野球やサッカーなどのチーム毎の統一されたデザインの服や、レストランやらでの制服を直接イメージするのはまちがいである。
しかして、葬儀や結婚式など、いまでは少なくなった「儀礼」を伴う、まさに「フォーマルな場」が、あまりにも特別になったので、このようなユニフォームさえ着ていれば何はともあれ失礼にはならないという安直がウケたのである。
逆にいえば、これさえ着れば恥をかかずに済む、ということである。
だから、どうして黒なのか?とかをいろいろ考えずにいたら、ついに「黒でなければならない」と自己規定することが、単純に「ただしい」に変容してしまい、こんどはそこから逸脱したものに「嫌悪感」すらいだくように誘導されても、それが誘導とは思えずに、積極的に賛同するようになるのである。
ここに、「大衆」をプロパガンダしておもうように動かす「支配」の側の狙いがある。
ときに、日本人にとっての「第一礼装」とはなにか?
こたえは、男女ともに、「黒紋付」である。
「和装」の足元は、「足袋」に決まっているが、このところベルトで止められるサンダルに足袋を履いて出かけている。
足のツボが刺激されて、気持ちよいばかりか「頭が冴える」のである。
大方の日本人が、足袋を履いていた時代に、冴えていたのはこのためか?
冴えない記事に翻弄されるのも、洋風靴下の甘い包み具合による脳への刺激が減ったことが原因かもしれない。