GHQが勝者の論理丸出しの「占領」で、国際法もなにもかも無視した横暴をやったことことから、それが実態は「征服」だったとしれる。
これを企図したのは、開戦の半世紀前にも遡る『オレンジ計画』だったことが明らかになった。
だが、もう当事者とその世代は日本にもアメリカにも生存していない。
しかし、あんがい見棄てられているのは、計画の実行者だった「GHQ」とは、欧州を含めた戦勝各国の「連合軍」のことだから、わが国を征服して彼ら基準での好き放題をやった連帯責任から逃れられるものではない。
逆に、マッカーサーひとりの戦後処理を装った犯罪ではない、ということだ。
その数ある犯罪行為の中で、もっとも効果的な破壊力をもったものが、「天皇の人間宣言」である。
明治の、ほんとうは欧州列強の手先である「元勲」と呼ばれるひとたちの筆頭、伊藤博文が企図した「日本教」の布教をもって、わが国は近代工業国家へと脱皮するのに成功した。
「日本教」の構造は、ドイツ皇帝に謁見して指導を受けた伊藤が、プロテスタンティズムに基づいて考案したとおり、「プロテスタント教会」とおなじ建て付けになっている。
それが、「現人神」に集約される。
あろうことか、わが国はマックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義に精神』を発表した1904年(明治37年)から5年よりもずっとはやい、1889年(明治22年)に、『大日本国憲法』をつくりおえていた。
逆にいえば、マックス・ヴェーバーは日本の状況からパクったのではないか?
それゆえに、『マックス・ヴェーバーの犯罪』なる告発本を書けるのが日本人だけなのではないか?と疑うのである。
ところで、ニーチェが『アンチクリスト』を発表したのは、1895年で執筆の開始は1888年だったから、やたらわが国の動きにまとわりつくのである。
わが国の事情をいえば、伊藤をはじめ討幕運動にかかわった者たちのほとんどは、「水戸学」に陶酔していた。
朝敵とされた徳川慶喜は、その水戸藩生まれであった人物なので、グルッと一周する。
産業革命を実地で観た伊藤は、市民社会のなかでも「中間層」の役割なくして工業化の不可能をしり、それをどのように作り出すのか?の挙げ句に、「四民平等」にいきついた。
身分制の伝統あるわが国を、フラットな「市民社会」に改造するには、ヨーロッパで圧倒的な権威たる「神」を創造し、それに四民を平頭させることが必要だったのである。
ために、伊藤本人は、生涯、天皇に平伏しなかった。
「現人神」をつくった「超人」が伊藤そのひとだとの自負であろう。
これを、「不敬」と責めたのが、暗殺犯、安重根の伊藤懲罰筆頭にあげる理由なのである。
しかし、先進国たるヨーロッパにおける「キリスト教信仰の弱体化」とそれにともなう「家族の解体」で、とうとう「道徳」と「倫理」が崩壊を開始する。
第一次世界大戦の「総力戦」とは、一般人を巻きこむことの無罪なる倫理崩壊があったことの結果なのである。
しかし、わが国は世界に魁けて日露戦争による「総力戦」を実行して、未来のヨーロッパに先行してしまったのである。
これが、ヨーロッパと日本がまとわりついて離れない、グズグズの原因だ。
しかし、「人種差別撤廃」をいいだした日本を許せないほど倫理が堕落したヨーロッパ&アメリカに敗戦してからの「戦後」で、彼らの「無」倫理の果てとなる「人間宣言」によって、ヨーロッパ&アメリカ人は、じぶんたちの神も徹底破壊したのである。
その挙げ句が、いま、だ。
トランプの登場も、ヨーロッパにおけるアンチ・グローバリズム政党の登場も、じつは「神を取り戻す闘い」となっている。
そうしないと、社会秩序の崩壊がとまらないからである。
日本では、神社を統轄する組織と、仏教の宗派それぞれにおける内部崩壊がとまらない。
構造がヨーロッパ&アメリカとおなじにさせられたからである。
つまり、日本再興のカギは唯一ここにあるということなのである。