2日、先月21日に亡くなっていたことが報じられた。
享年、92歳。
まずはご冥福をお祈りする。
ちょうど、わが家でも思い出したようにフジコさんのピアノが聴きたくなって、あれこれと聴いては感心していたのだから、勝手に、「虫の知らせ」ではないかとおもっている。
フジコさんをしるほぼ全員が、1999年2月11日放送の、NHK「ETV特集 フジコ〜あるピアニストの軌跡〜』の衝撃からのファンだとおもう。
わが家のテレビは、まだ「トリニトロン」であった。
夜のひととき、なにかおもしろい番組はないのか?と探したが、「困ったときの教育テレビ」という当時のノリで、チャンネルを「3」にしたら、上の番組がピッタリはじまった直後であったことを覚えている。
なんだ?という、はじめは風変わりなお婆さんの姿が、いったい何を描きたいのか?というわけわからん映像を観続ける不思議な感覚があったけど、いざピアノに向き合ったときの「音」には、おもわず家内と顔を見合わせた。
こりゃすごい!
テレビでこうした感覚になったのは、わたしの人生ではあと一回、やはりNHK教育テレビでの、年末恒例の「N響 第九演奏会」である。
それも、指揮者の大野和士が振った2002年の放送だ。
すでに滅多にテレビを観ない生活になり始めていたが、「そういえば今日は第九の放送がある」と思いだしてテレビをつけたのである。
だから、録画をしようなんてことは毛頭なかったのが、今となっては残念で、当時すら、途中で「しまった!」と思ったほどだった。
しかも、テレビのスピーカー音声だけで、わかる「すごさ」は、生で聴いたらどんなものか鳥肌ものにちがいない。
さて「フジコの番組」は、NHK教育テレビ史上初となる再再放送があって、ホームビデオで録画を果たしたが、経年劣化が激しくて、とうとうDVDを購入した。
彼女の母校、東京芸大の「奏楽堂」におけるリサイタルは、とうにチケット入手困難どころか不可能になって、数年前に別の演奏家の奏楽堂での公演に出向いて、「ここだったのか!」と感慨を深くしたものだった。
それで、東京国際フォーラムの大ホールと、横浜みなとみらいホールでの演奏会の2回、まだ彼女が70代の前半だった「若き頃」に拝聴して大満足だったのである。
お箱の『ラ・カンパネッラ』については、さいきん、東京芸大出身の若い後輩が、この曲の「フジコ節」になる演奏テクニックの解明をYouTubeでやっていて、ここ、というフレーズの再現を試みるが、「難しくてここだけ練習した」ほどに、フジコのさりげない演奏の高度さを見せてくれている。
早く弾くのがテクニックではなく、演奏者としての感性を自分の感覚通り表現できることがテクニックなのだという解説に、大きく同意する。
それが、フジコという人の孤独な人生と、あたかも「ハンガリー王国」という、当時はオーストリア帝国に内包された国の複雑性が、作曲者リストの感性と親和性があるのだろう。
ために、「リストを弾くために生まれた」と、ヨーロッパで若き彼女は絶賛されたのであろう。
はたしてフジコとは何者だったのか?
そして、彼女を見放した日本なのに、まさかNHKが復活のきっかけになろうとは。
あたかも、尋常小学校3年生のときに出て、大騒ぎになった、NHK(ラジオ)がそうであったように。
90歳を越えての演奏は、人並みに衰えたとはいえ、そこはフジコであって他の追随を許すものではない。
ぶっ壊れそうなカンパネッラ、このひとの繊細な感覚が奏でる音が証明する、「機械じゃあるまいし」と共に、A.I.時代とビジュアル優先に公然と反旗を掲げた芸術家の言葉も永遠の真理として後世に伝わるはずだ。
わたしは、フジコのカンパネッラは、ピカソが得意とした「鳩」を思い出す。
万回単位の練習の成果という共通があるとおもうからである。
しかして、映像と音源をたっぷり残してくれたのも、ありがたいことなのである。