課長決裁の重みを議論する有識者

14日、長野県長野市で、「児童公園からの子供の声がうるさい」との周辺住民からの苦情を受けて、課長がこの公園の「廃止決裁」をしたら本当に廃止になった件について、市の有識者たちが議論したとニュースになっている。

なんでも、上司の部長やそのまた上司の市長への「報告」が遅れたことと、一部の住民からの苦情だけで「廃止」にしていいのか?という問題を議論したのだという。

つまり、ふたつの問題がある、ということだ。

・課長の決裁権限
・公園廃止の事前ルール

少なくとも、戦後の約80年間、わが国では、「つくること」と「維持すること」をやってきたが、「やめること・廃止すること」についての方法論(条例の制定)は、事前に準備されていない落ち度がある。

この問題は、事前に廃止のルールがないのに、行政職にある課長職の職務権限だけで、あたかも廃止という決定がされたという順番での「問題」なのだ。

すると、根元にあるのは、「(新たに)つくること」にかかわる条例に「廃止」が想定されていない、という一点に尽きることがわかる。

これはもう「行政職」の問題ではなくて、「立法を職務」とする、市議会の落ち度となるのは、民間感覚でいえば常識だろう。
ちゃんとした民間企業では、「撤退条件の事前設定」といい、新規事業や新商品販売をはじめる前に、「撤退もセット」で決めることとするのである。

なお、撤退条件には、「機械的に判断するための単純ルール」が用意されているのも重要なポイントなのである。
だれがどう読んでも、おなじ撤退判断ができるように準備するからだ。

そうでないと、撤退の決断が遅れ、損失が膨らむリスクが増大するからだし、将来のある時点で、「はじめる」と決めた社長や取締役の任期を超えてしまう判断にも寄与できるという責任論からでも重要なのだ。

だから当初に設定した撤退基準に該当する状況なのに、それでも撤退しない、という判断をするのは、その時点での経営判断となる。
これも、自動的にだれ(たとえば「株主」)にでもわかるようにする(記録される)ことも内包する仕組みなのである。

このことは、兵の命にかかわる軍事における作戦の評価でもおなじだ。
なので、現場指揮官と作戦参謀それぞれの評価になって、必ず記録され、歴史の判断にまかされることも想定しているのである。

こうしたあたりまえの視点が、今回の「有識者」に欠如しているようにみえる。
まったくウクライナ軍の作戦(戦況)評価がメチャクチャなのとそっくりなのだ。

それに、この話題をニュースにした者たちにも、ぜんぜんないのは、いったいどういうことなのか?

つまり、行政権が絶対だという前提条件でだけ議論しているのだ。
まったく、「民主主義」を理解していない。

だから、一部の住人から「だけ」の苦情で廃止を決めていいのか?というトンチンカンな後付け話になって、あたかも事前に権限がないはずの(たかが)課長が決裁し、上司への報告が遅れたことが問題だということにしかならないのである。

一部の住民「だけ」の意見だったから問題だというなら、議会はどうなのか?が必要になるのは当然ではないか。
しかし、議論の範囲が「市の行政」に限定されているから、二元政治の一方の議会に言及できなかったのだ、とせめてもの解説はあっていい。

この解説がないので、おそらく能天気極まりない市議会とその構成員たる市会議員たちは、当該選挙区以外のほとんどが他人事でいるにちがいないのである。

この想像力の欠如、このルールづくり(条例制定)への無関心は、病的なのだ。

長野県(=「信州」)といえば、かつての貧しさから、教育に力点をおいて発展してきた地域として、全国に名を轟かせたものであったが、いまはその貧困が「政治的貧困」にまで堕ちた。

それもこれも、国から副知事やら局長級やら部長級の役人を「出向」で受け入れてきたための堕落だろうし、おそらく国会のプロパー職員を受け入れたことがないのだとかんがえられるのだ。

無論、わが国の国会職員は、「特別職国家公務員」だとされていることさえも、日本国民のほとんがしらないで生きている。
一般職と特別職のちがいすらわからないのではないか?

すると、実務として行政職が頼りにしているはずの、市の顧問弁護士はどういう法的アドバイスをしたのか?という疑問もでてくるし、「それは議会で議論すべき問題」とならなかった事情も気になる。

まったく、どいつもこいつもなっちゃないのである。

わが国は、戦前・戦中にまだあったはずの民主主義を、根底から失った、永遠の敗戦国なのである。

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