諸外国では、という枕詞

アメリカでのことなら、「アメリカでは、」を口癖にする文化人は掃き捨てるほどたくさんいた。
とくに、ポップカルチャー系では、これが一番の定番だった。

かんがえなくとも、「ポップカルチャー」とは、軽い文化と直訳できる。
「ポップ」といえば、ポップコーンがあるように、軽く弾けるというイメージだ。

どうして乾燥したとうもろこしを鍋の中で炒ると、弾けてポップコーンができるかは、最近まで科学的には解明されていなかった。
ついでに、コーン(とうもろこし)は、原種が発見されていない(進化の過程が不明)不思議な植物で、宇宙飛来説もある。

さて衝撃だったのが『ビートルズ』の出現で、なんとアメリカではなくて古めかしいイメージの英国発祥だったからである。
その後、スエーデンから『ABBA』が出てきて、ヨーロピアン・ポップが普通になった。

ときに、中東のポップカルチャーが日本で紹介されることは、滅多にない。
わたしは、エジプトの歌姫、「ダリダ」のファンだったけれど、晩年の彼女はパリに住んで、フランス語でアラブ風の曲を歌っていた。

もっと変なのは、明治以来、小学校にできた「音楽」から、邦楽が消えたことである。

だから、「長唄」、「新内」、「常磐津」、「清元」それに、「義太夫」のちがいがわからないばかりか、日本人の興味が失われたのである。

この意味で、古典的な日本舞踊も上手いのか下手なのかの評価ができないし、なにを表現しているのかさえよくわからなくなったのである。
2012年からはじまった、小中学校における「ダンス」が必修でも、日本舞踊は見向きもされない。

わたしが子供だったころ、町内ごとに山車を持っていて、それに同級生たちが乗って「お囃子」を大人と一緒に演奏していたのを眺めていたものだ。
練習(稽古)のため、祭りが近づくとそれぞれが早退を許されていた。

いまからしたら、これが教育というものだ。

子供時分に町内のお囃子を習ってマスターするのは、えらく貴重な経験で、おとなになって笛や太鼓を習ってもそうは簡単にマスターできないし、コンチキとお囃子の調子をとる「カネ(あたりがね)」は、簡単そうでものすごく難しいのだ。

つまり、自国の「基準」を失っている(失わされている)ので、外国との比較とは、狭くて浅い個々人の知識やら経験を基準にするしかないが、国全体で狭くて浅い個々人の薄っぺらな集団となったから、始末が悪いのである。

この意味で、わが国から知識人は絶滅した。

ポピュリズムを上から目線で批判しても、それが知識人だといえないのは、一世を風靡している評論家やらの言質が、まったくメチャクチャであっても、だれも気づかないことに原因がある。
そうやって、さらなる劣化となっても、自覚できないほどになっている。

こうした現象の深いところには、上の例に示したように「古典の欠如」があるからだ。

その欠如をもたらす手段こそが、学校教育と(各種)受験のセットで推進されている。
「いい学校」の基準が、「いい教師」とか「いい友人」、これを支える「いい地元」に出会える確率の高さから変容して、たんに上級学校への入学やら就職に有利、というだけになってしまった。

わが国は、地元で食べる職業を壊滅させて、「地縁」がほぼ途絶えたのである。
それでいま、LGBT法案やらで、最後の「血縁」も途絶えさせる狂った努力が政府によって推進されている。

小学校と中学校は基本的に近所の学区にある公立学校に入学するのがふつうなので、もはや「いい学校」という概念すら消えている。

これを、夏目漱石は、『坊ちゃん』で、明治にしてこうなる、という物語を残した。

「いい学校」も「いい教師」も、淘汰されていなくなるのは、淘汰されない身分に教師が落ち着くからである。
あとは、仲間内で楽しくやればいいのであって、余計なことはしないし、させないのである。

そうやってかんがえると、愛媛県の松山市が、「坊ちゃん」の舞台だったことをいまだに自慢しているのは、かなり変だ。
坊ちゃんを追い出した土地が、坊ちゃんを全面に出すとは、読解力があるのだろうか?とおもえるからである。

これは、たとえば、伊豆の下田や三浦半島の久里浜で共通する「ペリー礼賛」の神経があるのと同じ現象で、ペリーがなにをしに来日したのか?がすっかり抜け落ちて、ただ歴史上の有名人ゆかりの地、というだけの安易さが「ペリー祭り」にまで発展している。

郷土史家というひとは、呆れているのか?それとも別の土地に移り住んでいるのか?

日本は遅れている、という強迫観念は、日本が何者であるか?を忘却させられたためにあることを、かえって外国で生活すると気づくのは、外国人はちゃんと自国の自慢(日本人の価値観でめちゃくちゃでも)ができるからである。

これを、日本語では、「国粋主義」という。
外国人の国粋主義は笑って批判しないが、日本人の国粋主義はいけないものとする。

それもこれも、基準を奪われたからできるものなのである。

だから、そうしたひとたちは、「諸外国では」と枕詞をつけるものだが、そこに深い意味があるわけではないのに、なんだか有り難がるのは、上に書いたように「黒船」を有り難がるのと同じ発想があるからなのである。

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