「選挙 不正 日本」というキーワードで検索すると、それなりの事例や論文がヒットする。
もちろん、「事例」はマスコミが報道した事件性のあるもの、すなわち逮捕者がいるのであって、「論文」もマスコミ報道に基づいての分析であるから、原点にマスコミがあるという共通がある。
日本の風習は、「逮捕=有罪」との見方をするのであるが、どれほどが「起訴」を経て、「有罪確定」したのか?を調べると、あんがいと逮捕後の報道がない放置がふつうだから、最終的な確認ができない。
ようは、氷山の一角だといえるのである。
わたしが興味のある不正とは、候補者やその後援会の内部者といったお決まりの構造ではなくて、住民による地域ぐるみによるものの実体と方法なのである。
これは、前に書いた、田原総一郎の生涯唯一の傑作、『原子力戦争』における、あの福島第一原子力発電所周辺地域における、恐るべき告発をイメージするからである。
なお、この作品は、同名の映画(1978年、黒木和雄 監督、 原田芳雄 主演)にもなっている。
この作品で、田原が告発したのは、行政(「町」や「警察」、「消防」など)にマスコミの支局、漁協などだけでなく、そこに原発の生活保障たる補助金で怠惰に暮らす人々という、まったく別世界的な「町ぐるみ」の実体である。
だから、ほんの少しの「事故」を、地元のマスコミ支局が針小棒大に報道することで、町民にはさらなる補助金収入が増える構造が、なんと住民全員をパブロフのイヌ化させて、事故を待ち望むにまでなるというのである。
さすれば、ここから想像できる場面は、選挙にも及ぶ。
こうした構造を維持させる「保守」と、原発反対の「革新」とのお決まりの対決構造も、「保守」が圧勝するのは、どんな方法であれ、それが利益になるからである。
当然ながら、選挙管理委員会の職員も町民だから、どんな方法でも実行できる、というブラックボックスができるのである。
勝手ながら、マンガのような実体があったのではないか?と想像している。
しかし、それがいかほどに与党に都合がいいかを拡大解釈すれば、悪貨が良貨を駆逐するがごとく、全国に伝染するのは道理である。
そうやって、補助金漬けという「麻薬中毒」にさせられたら、もう二度と正気にはもどれないのも道理なのだ。
これがまた、国家予算が膨張する原動力になっていて、国家予算の使途不明金も膨大な金額になっていることの道理なのである。
しかも、もう会計検査院は限界を突破したので、「薬中国家」としてだれにもわからないのがわが国の実体になってしまった。
だから、国会で追及しても、平然と答弁拒否がまかり通ることになっている。
大正期の政党の腐敗が歴史として習うことになっているが、無邪気なレベルでの不正選挙があっても、いまほど整然としたシステム化までには至っていない。
しかも、多数の国民は、選挙で不正があることすら想像もしないように訓練されているのである。
まったくもって、『家畜人ヤプー』が現実になっている。
アメリカとはちがって、スマートに不正をやる。
これぞ、官僚国家のエリートたち(総務省・旧内務省)が仕切る選挙であって、堕落した民主主義はこれに住民を実行者としてやらせる仕組みを完成させていないか?
わたしの妄想的な疑いは、晴れないのである。