郷土の教科書『地球の歩き方 横浜』

わたしの家は、横浜市にあると何度も書いてきた。
小学校の社会科での副読本は、『わたしたちの◯◯区』というもので、行政区ごとにつくられたものを使用していた。

ちなみに、昭和44年9月30日までは「10区」であったが、翌日から「14区」に分区された。
いまは、さらに分区されて、「18区」ある。

『わたしたちの横浜市』という市部全域については、特に習ってはいない。

学校での「君が代」斉唱は、公式行事ごとの儀式にあったが、『横浜市歌』がのしてきて、「国歌」が横に追いやられた感があった。
続いて、「校歌」を歌ったものだ。

それで、森倫太郎・鴎外作詞の『横浜市歌』にある、歌詞から、横浜とはどんな町なのかを習うのである。

ちなみに、『神奈川県歌(県民歌)』というものがあるのかさえしらないで生きてきたけど、ネット検索したら出てきた(『光あらたに』昭和23年)ので驚いた。
県立高校生だったが、一度も聞いたことも歌ったこともない。

わたしは保土ケ谷区に生まれたが、小学校は近所の西区の学校に「越境入学」した。
すでに、ドーナツ化現象がはじまっていて、生徒数を確保するのが学校長の仕事になっていたし、あんがいと「学区」の規定も緩かったのである。
なお、2年ちがう妹が入学したときは、区がちえども近所の人の家に住民票を移している。

そんな事情で、『わたしたちの西区』を学んだので、保土ケ谷区のことをよくしらないまま還暦をこえた。
元来「西区」は横浜駅を含む狭い地域だが、これは戦争末期の1944年に中区からの分区なので、わたしが小学生の頃に新設の旭区と分区された保土ケ谷区とは趣がことなる。

これはこれでおそろしいことである。

地元のことを知っているようで知らないし、それがまたおとなの事情に依存しているからだ。
中学で保土ケ谷区側に合流したわたしは、保土ケ谷区側の小学校では、分区した旭区と一体の保土ケ谷区を習ってはいないはずが、副読本の方が古いままだったと聞いて妙に安心したものだ。

初等教育をバカにできないのは、高等教育よりも人間づくりの基礎になるからである。

だから、小学校教諭になるには、師範学校(教育学部)をでないといけないのに、中学校以上なら一般大学の専門科目をとって、ついでに「教職コース」を履修すればいい。
大学はもっと適当な方法で、教員になれる。

1985年にエジプトから帰国して、なぜか声がかかって『地球の歩き方 エジプト・イスラエル』の初版執筆陣に加わった。
学卒で会社に就職する前に、共著とはいえ自分の「著作」が世にでたのである。

昨1日、その『地球の歩き方』から、「横浜」がでた。
しかも、横浜を代表する大手書店、「有隣堂」で購入すると、「オリジナル表紙」がついてくるというから、久しぶりに足を運んで購入した。

なんとレジ傍に特設コーナーがあって、横浜名物のお菓子『ハーバー』も表紙と同じデザインの箱に入って販売されていた。
けっこうな「プロジェクト」になっている。

たまたまわたしが行ったときには、同書購入者としては先に二人が手に取っていて、あんがいと売れていることがわかった。

ちなみに、「有隣堂」は、郷土の出版社でもあって、神奈川県内の歴史や地理、すなわち「地志」を数多く出しているから、ただの書籍や文具の小売店ではない。

370万人の人口をかかえる「市」としては、わが国差大の横浜市ではあるが、いったい何部が売れるのか?
一種の、横浜市民の民度が問われているともいえる。

なにせ、横浜市が選挙区の菅義偉氏が総務大臣のときにできた、「ふるさと納税」で、日本一市民税収入が減ったのが横浜市なのだ。
横浜市民は地元への市民税を忌避しているけど、苦しくなって企図した「カジノ」も失敗した。

わたしは、菅氏はカジノをやりたくて、ふるさと納税をやったのではないか?と疑っている。

1%(100人にひとり)で、37千部となるから、いまどきなら大ヒットになるけれど、どんなものやら。
わたしがかかわった『エジプト・イスラエル』は初版で三万部だったと記憶している。

それにしても、全18区のすべての「歩き方」だというのは、そんじょそこらの観光客を相手に書かれたものではなく、まさに地元民向けの「全市対象 わたしたちの◯◯区・ガイド」なのだ。

「横浜市」を習う、中学生の社会科の副読本になればいいけれど、ちょうど夏休み中だから、「自由研究」として市内を歩くのも「おつ」なはなしである。

おとなでも熱中症に気をつけて、歩いてみたくなる。


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