静寂のお彼岸・墓参り

23日は秋分の日、これからクリスマスの冬至まで夜長がつづく。
秋のお彼岸の中日であるから、ふつうは墓参りの日である。

今年は、なぜか静寂の墓参で、寺の境内にも賑わいはなく墓地にも人影がない異常であった。

だが一方で、町を走るマイカーの数はおおく、昼時の路面飲食店にはどこにも入店できないほどの駐車場満杯・渋滞で、とうとうわが家では断念し帰宅したのである。

これは、たまたま個人の経験なのか?それとも社会現象としてみるべきものなのか?が気になるので書いておく。

アメリカでは、チャーリー・カーク氏の追悼式が、歴史的な人数の参加者であふれかえり、警備当局の発表で20万人という記録をつくった。
主たるSNSを勘定すると、あっという間に1億人以上がこの式をリアルで観ていることも確認されている。

これは、アメリカにおける「キリスト教の復活祭」だという見方もある。

既存宗教(欧米では当然に「キリスト教」のこと)を否定し、禁止する教義をもっているのが、「共産主義」という宗教である。
この寛容性のかけらもない、マルクスとエンゲルスが考案した人造宗教は、あらゆる言語的な二重基準(ダブルスタンダード)をもって、革命のための既存社会構造の破壊に勤しむ。

現代的には、「フランクフルト学派」と呼ばれるエセ学者たちの煽動に、ロシア革命のスポンサーとなった大富豪たちの子孫・末裔が乗っかって、ロシア革命による「大儲け」の二番煎じを狙っていることが、「自由圏」だった西側諸国の自由を奪っている。

それ自体が左翼のウィキペディアによれば、当然に、わが国の左翼政党は、立憲民主党、日本共産党、れいわ新選組、社会民主党、を挙げているのだが、自民党、公明党、国民民主党を挙げないというインチキな記述をしている。

しかし、世界の政治地図は、もはや「左翼・右翼」といった、「X軸」だけにおける一次元のプロットでは間に合わず、「Y軸」を加えた二次元で、「グローバル・反グローバル」といった、四象限上のプロットがないと表現しきれない。

さてそれで、左翼でグローバル全体主義にプロットできるのが、上に挙げたわが国における既存政党のすべてであるから、これらはみな、既存宗教の否定あるいは無視を決め込むのである。

公明党は、宗門から破門された信者団体「創価学会」を基盤として、過去の最盛期のお約束には、究極的に「国立戒壇」を主張していたが、いまはなんだかわからないでいることに注意したいほど、なんだかわからない宗教団体となって高齢化がすすんでいるのは、近親憎悪の関係にある共産党とおなじなのである。

つまり、不寛容かつ激烈な他宗教軽視をやっていたら、それがブーメランとなって自身の信者が増えないどころか減少しまくる崩壊までになったようにみえる。
これが、いわゆる「頭でっかち」な左翼・グローバル全体主義のお間抜けな姿で、それでいて自分たちには「選民(=エリート)思想」で傷のなめ合いをするのが行動規範となっている。

無論、わが国の既存宗教界は大丈夫なのか?と問えば、ぜんぜん大丈夫ではない。

前にも書いたが、コロナ禍で既存宗教界はどこも「コロナ退散大法要」を企画もしなかったばかりか、境内や堂内でのマスク着用強制や、ひいては、ひとが密集する恒例の法要行事すら中止にするという体たらくであった。

政府とエセ科学に日和ったのである。

それゆえに、信者・檀家の信心を薄めたのだが、『限りなく透明に近いブルー』のごとく、イカれた各宗教が、宗教としての力を失うことにおそろしくも鈍感だった。
ところが、そんな宗教的透明感が、この国に蔓延しているのである。

これぞ、ニヒリズム

そうやって、家族も解体されて「個=アトム」だけが残れば、血統による縦系のつながり=家系の概念がなくなったから、墓参りの無意味が墓地の閑散となったのではないか?とうたがう。

これは、「命(いのち)」と「魂(たましい)」の両立が崩壊して、物質的な「命」だけが残った姿であり、その命が尽きたら「物故する」というのは、魂がないとなればただの「唯物論」なのである。

自民党の総裁選が、かつてなく盛り上がらないのも、国民にニヒリズムが蔓延しているからで、そのニヒリズムを流布し拡散してきたのが「自・公・立憲共産」政権の所業であった

つまり、わが国の共産化が確実な姿となってあらわれた、とおもう瞬間が、おそらく、2025年9月23日であったと、記憶しておきたい。

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