自然災害は、だれでも被災者になる可能性があるので、他人事ではない。
ことしの元日の地震による被害は、想像以上に多大なようで、被災者にはお見舞いの言葉もない。
ましてや冬の北陸だから、さぞかし寒さがきつかろう。
こうした自然災害は、生活インフラを痛めつける。
なので、こないだは「通信」のことを書いた。
今回は、生存に必須の、「水」のことである。
テレビの全国放送で、細かな地域の給水情報を流す意味がどこまであるのかしらないが、アナウンサーは、どこで何時からの次に、「水がなくなるまで」という言葉を地区単位の都度、繰り返すので、だんだん不安になるのである。
給水車の水がなくなったら、給水を終えます、というのは、いちいちいわないといけないことなのか?
しかし、それから少し違う場所が対象になったら、どこで何時からの次に、「何時まで」とアナウンスするようになった。
つまり、「水がなくなるまで」と「何時まで」が、使い分けられているのである。
すると、「何時まで」とアナウンスされた地区での給水は、かなりふんだんな台数の給水車が用意されているという意味なのか?
それとも、想定被災人数あたりの想定量がある、ということなのか?
その時間までなら、給水を保障するかのようにとれるのである。
コミュニケーションは、「双方向」なので、「卵が先か、鶏が先か」という相互関係があるものだ。
なので、ここまで「水がなくなるまで」を全国放送で繰り返すのは、横入りもせずにちゃんと並んでいても、目の前で、「水がなくなった」という状況に我慢ならないひとたちがいた、ということを怖れるのか?を疑うのである。
「だから、水がなくなるまで」っていったでしょ、というわけである。
はたして、給水車はぜんぶで何台あって、どこで水を補給しているのか?
給水車の「水源」のことだ。
もちろん、給水車も燃料がないと動けないから、どこで燃料も補給しているのか?
近代水道が日本で最初にできたのが、横浜だったのは、船への給水需要からであったので、これも「外圧」だといえばそうなる。
幕府が作らせた、「玉川上水」をどうして近代水道といわないのか?の方が気になるけれど、能登における「水」は、水道ができる前にはどうしていたのだろう?
余談だが、帝都東京への水道網より、台湾で先に完成させた当時の日本政府は、なにをかんがえていたのか?
そんなわけで、水道水に頼らないで済む地区なりがどう分布しているのか?
あるいは、そうした水脈が地震で切れてしまった地区がどう分布しているのか?
とはいえ、ひとびとは、給水してもらうのに、どんな容器を持っていくのか?
いわゆる「一斗缶」の容量の、18Lポリタンクは「灯油用」としてあるけれど、ふだんから「飲料水」を入れるためにふつうは保管してはいない。
となると、バケツか?
地方のひとは、生活に自動車を保有している。
能登半島がどうだかしらないが、富山県はたしか、家族の人数分の自動車普及率で日本一だったから、それに近いのか?
また、日本独自規格の、「軽トラ」が地方では「足」だから、重い水を受け取りに重労働をしなくともいいかもしれないけれど、ガソリンに余裕がないといけないし、道路の陥没とかという障害も発生するのが、自然災害の厄介な点である。
これを、地区ごとに「代表」を買って出て、隣近所に配るということをしているひとは、どれほどいるのか?
この意味で、テレビ局は、自力で飲料水を受け取りに来い、といっているわけであるけれど、ひとりとか一軒につき「何L」かのアナウンスがないのは、持てるだけ与えるということなのだろう。
すると、ふだんから防災意識が高い人はたえず自動車の燃料を「満タン」にしているのが「よかった」になるのだろうし、飲料用空きタンクを保有していることの「先見性」もあるはずだ。
しかし、これが都市部だとそうはいかない。
むかしから、「災害列島」ではあるけれど、役所も、放送局も、役に立たないのは、いつの時代もおなじなのである。
これは、被災者目線での問題整理をやらずに、あいかわらず「プロダクトアウト(与える側)」の目線でしかないのが、こうした「業界」の常識で固まっているからなのだろう。
そんなわけで、都市部用のマニュアルと地方のマニュアルがあっていいけど、被災者が情報提供してくれるとありがたいのである。